第85話 王都内視察〔4〕
青年との話を思い出しながら愉快になって歩いて、次にカレーパンと、そして桜餅のことばかり考えていた。
夕暮れにはまだ早いが、昼間の賑わいが少しずつ鎮まってきている。
「うっせー、護衛だからって舐めてんじゃねぇ! こっちだって命あってのもんなんだ! 死んだ実に花が咲くわけねえだろ!」
本邸までの帰り道、突然大声で叫ぶ青年の姿があった。この道は中流、下流の貴族邸が続く道である。
「なんでしょうかね?」
「ああ、気になるな」
クリスとともに現場に近づいていくと、20歳くらいの激昂してる茶髪の青年と、どこぞの貴族の中年男がふんぞり返っていた。中年男の周りには何人かの護衛らしき人間がいる。
茶髪の青年が中年男に何かを言っているようである。
「貴様は言うことだけを聞いておればいいんだ。それに報酬は前払いしたはずだ、護衛風情がわしに文句を言うんじゃない!」
「ああん? そりゃ迷いの森に入ってすぐの場所って条件だろうが! 奥地まで行くなんてこっちは聞いちゃいねえぞ!」
「今さら泣き言なんて言うんじゃない。ああ、もういい、時間の無駄だ。じゃあ、お前とはこれまでだ。前払いした金を返せ!」
男はもう交渉に飽きたのか、もう青年とのやりとりは切ってしまおうと考えているようだ。
しかし、青年は先ほどまでの威勢を見せることはなく、むしろ
「口だけはいっちょまえのくせに金はもう返せないだと! 恥も外聞も知らんやつだ。それでよく文句なんて言えたものだ」
「……うるせえ」
形勢は明らかで、傍からは中年男が一方的に青年をなぶっているようにしか見えなくなっている。見るに堪えない。
「おい、こんな街中で何を争っている! 揉め事なら見えないところでやれ!」
社内で上司が部下に叱責している場面は昔よく見られていた光景だった。ああいうのはこちらには関係ないのに嫌なものだった。それでもまだ限度があったが、人を罵る姿はこうまでして醜いものなのかと暗い気持ちになる。
ドジャース商会ではどこまで守られているのかはわからないが、人を怒鳴ることだけは客の前ではするな、そして客の前以外でもできる限りやめろ、という話はしたことがある。
「関係ない人間が偉そうに講釈垂れるな!」
中年男は青年に向けていた目をこちらに向けていた。嫌な目だ。
私が街中を歩く時には王都民としか見えないように変装をしている。この中年男の格好からすれば、みすぼらしい格好に見えたのは間違いない。
「偉そうでもなんでも事実だろう? それともこの国のお貴族様はそんなに偉いのか?」
「貴様、言わせておけば……」
中年男の周りにいた護衛が2人、前の方に出てきた。
こんな街中で刃傷沙汰を選ぶとはぞっとしない。
この程度のことで争いなんて、江戸時代の武士でさえ簡単に切り捨て御免なんてことはしなかった。いったい王都の治安とは何なのか、頭の痛いことである。
「なんだ? 口では勝てないから実力行使か?」
「ふん、ぬかせ!」
こういうのを人前でよく平気でできるなとつくづく感心してしまう。
出るところに出たらこの中年男の立場が悪くなるはずなのだが、こちらが痛い目に遭えば訴えることもできないし、訴えたところで中年男には何の過失もない、そう考えているのだろう。私たちの周りにいる人々もこの中年男からの報復を恐れて、あえて証人にはならないだろう。
「バカラ様、お下がりください」
クリスが小声で言って私の前に出る。
おそらくクリスであればこの2人の護衛も難なくやっつけるだろう。クリスもそう踏んでいる。
が、それを制止して中年男に言った。
「マドルド子爵よ、余の顔を見忘れたか?」
言ってみたかったのである。
この中年男はミート・マドルド子爵であり、頭の中にきちんと入っている。何度か王宮内で顔を合わせている。小太りのおっさんで記憶に残りやすい顔と体型である。
こんなことでクリスに動いてもらう必要などない。お互いにもしものことがあった方が後悔する。
「な、なにを!? この庶民めが!!」
おい、子爵よ!
どうして私の顔を見ても気づかないのか。
何回かの会合で私の顔を見ていただろう? 会合じゃなくても私の顔を見ていた機会はたくさんあったはずだ。
もしかしてこの数か月で私の肉が落ちたからわからないというのか。
「バカラ様、お下がりください……」
クリスが同じ台詞を言ってきた。なんだかいたたまれない表情に見えたのは私の気のせいか。
しかし、助け船が出された。
「バカラ様、お帰りが遅いので、参上いたしました」
キャリアの娘、シノンである。
彼女はまだ10代半ばなのだが、キャリアに諜報活動などを教わって、いろいろと動いている子である。
「バカラ様だと……ま、まさか。あ、あなた様は……」
午後8時45分くらいの展開がやっときた。ようやく私の正体をわかってくれたようで、一安心だ。
2人の護衛も、それ以外の人間も私に向けていた武器をすぐに下ろし、敵意も消えている。その表情は驚愕の色に変わっている。これがこの世界での私の立場の恐ろしさなのだと実感する。
優越感がないかというとそうではない。私の声一つで海が割れていくようなものである。ただ、冷静に振り返った時にあまり気持ちのいいものではないことの方が多い。
私が指示を出せば、この者たちは子爵を含めて牢に入れられるだけではなく、この国に住むことはできなくなる。この力の使い道を誤った場合、とても恐ろしい結末になるだろう。そんな予感はある。
シノンは私とクリスの後ろにずっと忍んでいて、気を利かせてこうしてあえて「バカラ」とわかるように言ってくれたのだ、と信じたい。
こうして子爵たちは「ははー」とでも言うかのように低姿勢になった。
権力に弱い人間というのは、こうまでしておもねるものなのかと溜息が出そうになるが、そういうのも人間なのだろう。今はこの力に感謝をしよう。
「それで、そこの青年、金はこの男に返却できるのか?」
「あ……、いえ」
まあそうだろう。この子爵だけが悪いわけでもない。
バカラ・ソーランドだったら……
……そうだな。きっとそうするだろう。
「おい、いくらだ。私がこの青年を引き取ろう」
「いえ、そんなバカラ様にご迷惑では」
「いい」
そう言うと子爵は私に金額を言って、それに上乗せして代わりに支払った。それを受け取ると、子爵たちは急いでこの場から離れて行った。
あとには呆気にとられた青年と、同じく何が起きたのかよくわかっていない王都民たちがいる。
そういえば、バカラはきちんとした身元を調査してから人を拾うんだったなと今さらになって思い出した。
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