第60話 カトリーナの生誕祭〔5〕

 騎士といえば体育会系、つまり身体はマッチョ、更に進んで頭までマッチョ的思考ということで、単純な思考の持ち主だという否定的な評価が日本にはあったことを私は知っている。


 「体育会系」という言葉が使用される文脈は結構複雑で、今マース侯爵家の人たちのような実直の場合は概ね好意的な評価で、言葉は簡潔で素朴にして、挨拶は大きな声でハキハキとしていてフットワークが軽い。

 こうした例は、まあちょっと暑苦しいなと思う人はいるだろうが、深刻な問題はゼロではないが少ないと思う。実際、若い社員にも同僚にもそういう人間はいた。


 でも、何か事件を起こした時、たとえば体育会系の大学生が目も当てられない事件を起こした時には「やっぱりな」と思われることがあって、その「やっぱりな」には「体育会系は馬鹿だ、単純だ、脳みそも筋肉だ、だからこんなことをしでかすよな」という含みが多分にある。


 体育会系の人間が単純だと思われるのはなぜか? この問題は実に根が深いと思う。


 部活動問題でよく聞く「先輩の命令は絶対」やそれを破ったら、いや破らなくてもハラスメントが横行し、力でもって支配していく構造の中にみなが否応なく巻きこまれる。


 最初は後輩として先輩からしごきという形でかなりのハラスメントがあって嫌だったはずなのに、いざ自分たちが先輩の代になったら、なぜか自分がやられてきた嫌な記憶があることを持ち出すも「俺たちもこうだったんだ」とかつての先輩と同じことを繰り返し、不思議にも「俺たちは嫌だったんだ」とその負の連鎖を自らが断ち切ることは、哀しいほどに稀である。負の再生産と呼ばれるものである。


 これはドメスティック・バイオレンスの被害者がやがて加害者になる危険性が高いこととも密接に関わっているのだろう。力で説明されたら、力で説明する術しか持てない、それ以外を知らないのである。そうでしか表現できない、これは本当にやりきれない。


 自分が嫌な目にあったのに、それが後輩たちの時代ではチャラになるなんて許さない、いや許せない、おそらくそういう心理はあるのだと思う。

 だから、自分たちが受けてきた暴力、ハラスメントがおかしいということに気づかないし、気づけない。


 「やれと言ったらやれ」という監督や先輩の命令は、言われた本人がその行動の意味や意義を考えようとするやいなや叱責され、だったらもう何も考えずに言葉通りに行動した方がよいという決断をさせる。そこに主体的に考えるという余地は残念ながら、ない。ゆえに、その異常さに気づけない。


 したがって、その構造の中に身を置く、あるいは身を置くということにすら気づいていないということは、そのいびつで暴力的で単純で幼稚な構造自体を自分から切り離して対象化して考えることもできないから、それが当たり前になる。

 その自分の振るまいは当たり前であり、でもその当たり前が実は当たり前ではない場に出くわすと双方の「当たり前」が衝突してしまい、やがて事件になる。

 そして「体育会系」という所属や履歴がある場合には、やはり「やっぱりな」という評価をされて、次に起こる「やっぱりな」の事件に対して一種の物語として補強して支持していくような事例としてカウントされていってしまう。

 おそらくこういう構造として説明ができるのだろうと思う。


 だから、体育会系は単純な思考なのだと笑われてしまうし、なぜなら体育会系だからだ、としかいえない。そこに論理などなく物語しかない。

 一旦社会に蔓延するとその理由も根拠も起源もさかのぼることもできず、抗うこともできず、さらに多くの事件が起きる度にそのイメージが社会に粘り着いていく。

 これが体育会系は単純だという物語の正体である。


 そしてこのような精神のあり方というのは、何も学生の専売特許でもなんでもなくて、会社にも言えて、ブラック企業と呼ばれる場所にはおそらく同じ構造が見出される。考えなくてもいいからやれ、言われたことだけをとにかくやれ、と。

 むしろ、大人社会がそうなっているから子どもたちの社会も同じような構造になってしまっているのだろう。


 これは昔のことだが一つ挙げると、親分と子分という関係を作りたいと思う人間が多かった。

 私は昭和世代の人間なのでそういう気持ち、たとえば子分が恥をかかされたり何か粗相をしたら親分が出てきてケツを拭いてやる、こういう気持ちはわからなくもない。

 だが、やはり自分が子分として半強制的に位置づけられて無理難題を押しつけられたのは嫌だったという記憶しかない。一方的に子分を作らなければ気が済まない親分というのはタチが悪いと思う。もしその親分を擁護するとすれば、彼は孤独が嫌だったからなのだろう。


 昔は人情派の親分肌の人間は多くいたが、それの全てが良かったとは今は考えていない。

 その昭和の残滓ざんしは平成に生き、令和にもまだ潜んで脈々として続いている、と思う。



 したがって、騎士というのがある種「体育会系」と相似関係にあると思われ、単純な思考の生き物だというレッテルがあるのだろうと思う。

 もしかするとこうした社会の偏見がゲームの世界の人物の性格設定にも影響を及ぼし、さらにそれは具体的にはマース侯爵家の人々の行動原理や性格とも関係があるのかもしれない。

 これが考えすぎかどうかは今しばらく時間をおいてじっくり考えてみたいことの一つである。


 ただ、今こうして話をしている目の前の人間のドナンやファラが「そういう設定の性格」だといって理由付けられて片付けられてしまうのも、私は全面的に抵抗をしたいと思う。

 それは、不誠実だし、こういう考察をすること自体も大変上から目線で失礼にあたる。

 何よりこの人たちは今こうして動いて生きている、あのカレン先生と同じように。

 が、それでも理屈をこねて考えざるをえないのが哀しいところだ。「人を形から見るんだね」と冷ややかに妻に言われたことを思い出す。



 それにしても、同じ家系といっても、どこかベルハルトは父と姉とは違うような雰囲気を受ける。退屈をしている顔もなく、だけど家族全員で一体となって何かやる、というような感じでもない。

 あのよくある体育会系のノリがなく、やはり軟派なノリというのだろうか、そういう印象を受ける。ウィーエだったか、そういう言葉を使って場を楽しむ若者、というのは考えすぎか。


 カーティスの場合は例外だが、この年代の子を家で育てるということがなかったので、11歳の男の子というのはどういう年代なのかがはっきりと掴めないのだが、こういうもんなんだろうか。 

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