第42話 宗教と医療

 2年目の10月も過ぎ、すでにこちらに来て1年と半年が経ってしまった。

 この間は、人捜しに追われていたように思う。


 我が領地に必要な講師は、医療に携わる人間だった。

 衛生観念は刷新しつつあるが、たとえば外科的な医療行為は無に等しい。

 もちろん、王家や王都にはいるようだが、庶民は利用できない。だから骨折だけでも大変なことになる。


 実は光の精霊と契約すると治癒魔法が使える。治癒魔法を使うと、骨折も治るらしい。

 いったい医療をなんだと思ってるんだと馬鹿らしくなる規格外の魔法だが、その契約者は極端に数が少ない。世界でも本当に数えるほどのようだ。

 どうやら多くの国の王家や教会の人間たちはそういう人間を特別に「聖女」と呼んで称えて抱え込んでいるようだ。なぜか「聖女」で、「聖者」とは言わない。

 いずれにせよ、王家の医者というのもお飾りに近いものがある。


 私としてはそんな稀有な魔法に、稀少な使い手に頼るわけにはいかなかった。

 少人数が支えるようなシステムは、誰かが欠けただけで簡単に崩壊する。そんなシステムは、特に命に関わる場合には持ち込むべきではないと思う。



 この世界では、人は肉体と魂から成り立つ存在であり、魂が離れると則ち死を意味する。そして、その魂はけがれなきものであり、死体は穢れそのものであり不浄である。

 だから、死体解剖などは行わず、そのまま教会に送られて葬儀が執り行われるか、人里離れた場所では放置するのが一般的らしい。

 これは死生観や宗教観の問題にも関わるので、なかなかおおっぴらには言えないが、ただし完全なタブーでもない。


 もちろん、魔物や通常の獣、家畜は例外で、死んでいるからといって穢れだ、食えないという話ではなく、みんなで美味しくいただく。

 特に魔物の肉は家畜よりも美味しいと評判であり、討伐対象ではあるが、その肉や素材が活かされる。それを売って生活をする冒険者と呼ばれる集団もいる。



 探し出したアーノルドという40歳くらいの男がいた。

 彼は元々医学を学んだが、ほとんど解剖というのを習わなかったようだ。じゃあ一体何を学んだのか、大いに疑問である。

 人体の仕組みなどあまり明らかになっていないに等しいが、それでも世界のレベルで考えるとアーノルドは一歩も二歩も進んでいると思う。


 私も話をすることがあったが、バラード王国にはなかなかない知見を有しており、いくつかの国々に赴いて集めてきた知識は、基本的に私の知っている知識と違うことがない。


 それでも本人には医術の限界を感じていたようだが、私が雇い、他にも何人かの者を他国から引き入れた。中には人間以外の動物の実態を調査する研究者もいた。


 そしてある日、死体を解剖したいということをアーノルドたちが申し出たのだった。



 この世界にはアポロ教と呼ばれる一大宗教があり、なんだかチョコみたいだと思うが、とにかくそのアポロ教が教会と呼ばれる施設の正体である。

 他国でも幅広く活動をしているので、この世界の人々が信仰しているのは、基本的にこのアポロ教とみて間違いない。


 死ぬとそのアポロ教の教会で葬儀が行われるが、葬儀が行われない者もいる。つまり、誰も身寄りのない無縁仏である。

 そういう人間の亡骸は引き取り手がいないので見えない場所、それは共同墓地とでも呼べる場所にひっそりと送られていく。その処理は火葬であり、火の魔法を使えるものが火を起こすこともあれば、日本のように焼却所のような場所で処理をされる。あるいは、地域によっては土葬となる。


 死体を解剖することは宗教的タブーに近いように見えるが、法で裁かれるわけでもない。

 ただ、常識的におかしいぞ、と思われることは確かだと思う。穢れに触れている、死者を冒涜ぼうとくしているとみなされるというわけだろう。


 したがって、まずは国王に、次にアポロ教会の本部に、そしてバラード王国内のアポロ教の中枢にいる者に、死体解剖というのを医療に役立てることは是か非か、というお伺いを立ててみた。

 これには長いやりとりがあったのだが、「関与しない」だった。

 

 日本にもいろいろな宗教があって、私たちの一般的理解の中でも聖職者の階層と役職とがごちゃまぜになっていてよくわかっておらず、たとえば、キリスト教の場合は司祭とか主教とか枢機卿とか教区長とか教皇とか法王とか大司教とか、他にもいろいろとある。

 これは非常にややこしい。さらに神父とか僧とか、そういう言葉が入ってくるとこれはもう何がなんだかよくわからない。


 だが、アポロ教はおそらくカトリック系を軸にわかりやすく統一されている。本当にこれでいいのかと思うほどである。

 まあ、ここは開発者が稀に見る良い仕事をしたが、神罰が下らないか心配である。


 すなわち、一番上が教皇、そして大司教、司教、司祭、助祭と続く。大司教が基本的に国に一人、実質その国をまとめている責任者である。バラード王国は広い国なので、大司教が3人いる。そして、王都に一人いる。

 中には戦う司教という騎士のような者もいるらしい。


 私がやりとりをしたのは、このバラード王都にいる大司教、ならびに教会本部にいる教皇、そしてバラード国王である。

 この三者が「関与しない」と言った。


 正確には国王は「やれ」という立場であり、実際にはこの国王が教皇ならびに大司教と間接的に交渉をしたという経緯がある。

 あの国王が意外にも好意的な反応と対応をしたのは驚いたのだが、これは死体解剖が公に認められ、ソーランド公爵領でその研究をしてもよいというお墨付きをもらったということを意味する。もちろん、大々的にやれるようなことではないので、ひっそりとやることになる。


 交渉期間は半年以上かかってしまったが、こういう手続き論をおろそかにすると後が怖い。

 きちんと正式の文書、署名、印などのあるものでやりとりをし、私自身も教会本部まで行って教皇と会い、さらに国王からもそれなりの立場の者が派遣されて、第三者が見ている中でやりとりを行った。

 こういう場合の書には格別な力がある。厳重に保管している。

 教会関係者にはなぜそこまで私がこだわるのかいぶかる者もいたが、こういうのは後々効いてくるのだ。



 さて、そのアーノルドだが、彼は肉体と魂の関係は疑っている人間であり、アーノルド以外にもそういう医療関係者がいたので、穢れというものに触れることにためらいはない。


 領内には亡くなった遺体の通報を受けて、事件性の有無などを調査する警察組織のようなものがあるのだが、その遺体を引き取る。遺族が引き取る場合はその場で受け取るが、誰もその遺体を知らないということになれば、最終的に教会に送られていって共同墓地へ、という流れになる。

 その遺体を解剖する、ということになった。


 人体の構造をきちんと記録していく、そういう研究をさせていた。


 なかなかマッドな感じもするが、解剖後はきちんと埋葬する。そのことは厳しく言いつけた。貴重な検体には敬意を払うべきである。一体一体をその人だと個体認識し、丁重に扱っていく。

 また、変死の場合には細心の注意が必要であることは言っても言い足りないくらいに言い含めて、場合によっては中止することもある。

 こうして慎重に解剖をし、その一つひとつを大切にしてデータにしていった。


 この世界に解剖図というものがないようだが、初めてアーノルドたちが創り出したと言える。人体模型も初めてかもしれない。

 たぶん、ゲームの中に全身骨格模型なども出てくることはないのだろう。


 こうして公爵領で医学、医療研究が始まっていった。

 もちろん、毎回死体を解剖しているのではなく、製薬研究者とも共同したり、化粧品の開発者や他の研究者たちとも定期的に情報交換をさせている。

 また、私も知っている範囲の人体の組織やその主な働き、特徴のある病気と症例や症状などを教えた。


 これは数年で成果が出るものでもない。

 今後数十年かけて発展していくんだろう。そういう研究をするのもありだろう。もしかすると他の事例のように、この研究も急速に発展していくのかもしれない。


 きっといつか私がこの研究に援助していたことが広く知られれば、非難されるかもしれない。しかし、これは覚悟の上である。

 治癒魔法だけに頼らない、人の手による医療行為の歴史は始まったばかりだ。その歴史は魔法ではなく、人の手で掴み取っていくものだと思う。


 なお、こうした人体の仕組みの解明は、クリスやカミラのような護衛にも役に立つ。

 人はどのような動きをするのか、どこが弱いのか、逆にどこが強いのか、どこを狙うのがいいのか、急所とはどこか、そういうのを科学的に分析して攻撃、あるいは防御の仕方を新しくしていった。ここには魔物の解剖なども含まれている。


 そして、たとえば腕や脚を負傷したり壊死したりするなど、使い物にならなくなったとしたら、切断する。

 その切断をするかどうかの判断、するとしたらその処理をどうすれば命だけは最低限救えることになるのか、生存率を上げるにはどうすればよいかなど、そんなことも徐々にわかるようになってきた。

 一つの研究が波及していく事例である。

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