第34話 一年の成果〔4〕
公爵領には新聞や書籍を出版、販売しているところがあって、それはドジャース商会の傘下に入っている。教科書もここで作っている。
その責任者が私が子どもたちに話していることをぜひ本にしてもいいか、というお伺いを立ててきた。
イソップ童話やグリム童話など、ありふれた物語だったが、これも情操教育以外に識字率を上げるものになるかもしれないので、許可を出した。
また、私は娘が中学生、高校生の時にはPTA会長をやっていたので、人前で話すことが度々あった。
その時に話すために参考にしたタネ本も数が多く、その内容を伝えた。
後に『人を動かす珠玉の言葉たち』というビジネス本、自己啓発書、帝王学入門のようなものが出たのだが、立場が上の人たちからの評判が良かったようだった。
はっきりいって名言も丸パクりなのだが、この世界にも心が動かされる人が多いことに驚いたものだった。なお、他国にまで翻訳されているようだ。続編も近々刊行予定である。
ただ、出版に関してはバカラ・ソーランドという名前ではなく、カメラ・メメントという偽名で出版した。イソップ童話などもすべてこのカメラ・メメントという架空の人物の本となる。
その正体を知るものはほとんどいないため、このカメラ・メメントとは一体何者なのか、という噂もあるようだ。
謎は多い方がいい。
謎が話題になり、関心になり、魅力になり、魅惑になり、購買意欲につながり、それを買って持っている人を見たら自分も欲しいと思うようになっていく。
他人が持っているものを自分の欲望と思うようになるというのは、おそらくこういうことなんだろうと思う。
自分の欲望とは実は他者の欲望であり、他者の欲望の
自分の個性や私らしさというものを大切に思っているのなら、人を真似るということには矛盾があるはずだが、その問題は棚上げされて、そこに一種の安心感と連帯感を見出していくのが人間という不思議な生き物なのであり、社会の中の一員であることを確認せざるをえない本能的な心のあり方なのだろう。
娘が通った学校ではそんなことはなかったが、学校には制服と呼ばれる一律に同じ格好をして帰属意識や愛校心というものを高めていくシステムがある。勝手に制服を着崩すことは、つまり差異というものが認められないシステムである。
娘は「制服のある学校がよかった」と不満を吐露していた頃があったが、毎日着替えるのが面倒くさい――娘の一番の理由はこれだったが、他にも同じ服は着て通えないと言っていた。毎日同じ格好が許される方が気が楽なのだという。
ファッションは個性を示す身近な例だが、日々個性というものが試されて評価されていき、自らもまた評価していく。
私たちは通常、気に入った服があるからといって、同じ服を2枚も3枚も4枚も買うことはない。同じ服を着ている=洗っていない、という誤解をといたとしても、みんながそのことを了承していたとしても、こんなことを普通はしない。娘も妻も同じ服を身につけることはしない。
それこそ真に個性的だと思うが、その選択肢などはありえず、昨日と今日、今日と明日、昨日と明日、月曜日と金曜日が重ならないように調整していく。
私もネクタイ選びはそうだった。
川上さんが目ざとく「田中さん、昨日と同じネクタイですよね」と指摘した時にはギクリとした。
なぜ私はその時に「これ気に入っているんだ」と胸を張って言えなかったのだろう。
なぜ気に入っていたネクタイを一週間も二週間もずっと首元に巻かなかったんだろう。
その意味はよく考える。私自身もそういう違いを示さざるをえなかったのだと思う。
だったら、いっそのことそれを塗り消してしまう制服の方がよい、娘の心情としてはそんなところにあるのだろうと思ったし、私の心情もそういうところにあった。
会社員時代のある時期は私はネクタイを着けず、スニーカーに通勤用のリュックサック、冬にはウインドブレーカーを羽織っていたが、会社の行き帰りに制服を身につけた高校生たちは、通学用の学校指定の共通バッグにはワンポイントのバッチをつけていたし、胸元のポケットにはカラフルなポールペンを入れていた。
スマホにも特別なアクセサリーを付けたり、靴にシールを貼っている光景も目にしたことがある。
つまり、高校生たちは制服という一律なシステムに乗っかかりつつも、他の人との些細な違いを制服や鞄や靴をわずかにアレンジすることで示し、その微妙な違いを以て自らのわずかな個性を日々表現しようとしている。
そういうプチ個性の発露を笑うことはできないし、もし笑うなら私は自分自身のセコいネクタイずらしを笑うことになる。
深刻に思う必要はないのかもしれないが、私にはそのことはとても印象深く思えた出来事だった。
制服と私服については、いろいろと考えさせられたものだ。
私たちはみんなと一緒の方がいいのか、みんなと違う方がいいのか、みんなと基本は一緒だけどちょっとだけ背伸びをして違うことを選ぶことを好むのか、どうなのだろう。
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