第10話 内政〔2〕

 報告書を見ながらふと気づいたことがある。生まれる者も多いが、亡くなる者もいる。その死亡原因である。


「しかし、亡くなる人間が多いな。これは?」

「はい、疫病が一番深刻です。あとは魔物の被害もあります」

「疫病に、魔物か……」


 正直、餓死者がほとんど皆無であることは救いがあると思った。

 領地に住む者が食うに食えない現実はやはり心が痛い。


 今は亡き田中哲朗の両親も小さい頃はひもじい生活をしていたと何度も聞かされてきた。

 小学生の時分だったろうか、嫌いなものを残した時に父が「残すな、食え!」と大激怒したことがあった。普段怒らぬ温和な父だったので驚いた記憶がある。

 ただ、それよりも母が何も言わずに静かに私の皿を取って、片付けたことの方が妙に恐ろしかった。

 その後、大学生の時に仕送りもバイト代も尽きて、初めて飢えるということを知った。

 もちろん、それは2、3日程度のことだ。そのくらいでは人は死なないし、飢えるとはそういう意味でもないだろう。


 ただ、その時になってあの時の父が怒って「食え」と言った、父自身の壮絶な過去を踏まえた偽りのない言葉の意味と、母の「食うな」という無言の対応の厳しさを知ったように思う。

 私は母の対応に「飢えて死ね」と言われたように勝手に感じていた、たぶんその時感じた恐ろしさはそういう理由があったのだと思えるようになった。


 そういえば、妻の方の義父母も食べ物に関してはそうだったと聞いたことがあったな。


 「世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかり」という歌ではないが、何の躍動するドラマのない人の生もまた一つの幸せな人生の形だと思う。


 飢えに苦しむ人間がいないのは先々代からの教えの一つであり、先代もバカラもそれに従っていたと見える。

 バカラも民が死ぬことを本意ではないと思っていた記憶がある。


 疫病については単純に医療技術や衛生思想が広まっていないところにある、とにらんでいる。

 そもそも専門的な医師という職業が少ない。

 庶民は民間信仰や聞きかじった程度の医療の知識を持つ人、多くは教会の人間らしいが、その人たちのところに行くのだという。

 だが、信仰で心は救われても身体は救われない。


 魔物については、大型の獣以外にもいろいろいるらしいが、領土の中心から離れれば離れるほどその被害が大きいため、定期的に魔物を狩らなければならない。

 これについては一時的に凌ぐに過ぎないが、兵を雇って定期的に巡回させることにした。

 バカラには魔物についての記憶があるが、危機感を持っているようだった。

 だから、腕利きの人間にはそれなりの報酬も払うことに決めた。まさに命がけなのだ、安い報酬など話にならない。


「ふむ、まずは疫病から手を付けよう」


 とはいえ、疫病とは対策が難しい。できることは現段階で限られる。

 確か、川上さんの話ではヒロインが何かを作って改善していったと言っていた。

 ああ、そうだ、ヒロインは石けんをもたらしたと聞いていた。ここにもヒントはあるのだろう。


 もちろん、石けんだけでなんとかなるとは到底思えない。疫病対策はそんなに生ぬるいもんじゃないことも痛感している。


 衛生観念に関しては清潔や消毒、除菌や殺菌という考えがあまりないように見える。食中毒で亡くなるという事例も意外に多かった。

 おそらく、手洗いやうがい、清掃などの習慣とも関わってくることなのだろう。こうした日常の生活パターンの変化で改善できるところは多分にあるのだと思う。


 インフルエンザが例年に比べてほとんど流行しなかった年もあった。その原因にはいくつかあるが、マスクに加えて手洗い、うがいの励行により、飛沫、接触感染を減らしていたという記事を読んだ。

 これまでにない習慣や衛生観念をどう改革していくか、なかなか容易なことではないが、この石けんを一つの突破口として利用し、徐々に広げていけばいいなと思う。

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