Case1―Scene9  葛藤

 滝野は息も絶え絶えにトイレに駆け込み、ゴリラの覆面を外した。震える手でライフルを分解し、何とか上着に包める大きさにする。

 戻せなくなったら困るので今まで銃は一度しか分解したことがなかったが、最低限の工具は常にポケットの中に入れていた。

 苦戦の末の数分後、滝野は辺りをそっと伺いながらトイレを出た。やはりあの男の姿は見当たらない。自分が降りてきた階段の上が何やら騒がしかったが覗き込む勇気はなかった。

 券売機で切符を買う。さっきよりも冷静さを取り戻していたので、何てことはなかった。

 息は上がったままだったが、倒れ込むように電車のシートに腰を下ろした滝野のことを、不審の目で見る者はいなかった。


      ***


 滝野が目的の駅に着いたのと同時に、電車の運行が止まった。駅のホームも、雰囲気が何だかものものしい。

 電車が止まるときはいつも人身事故だかポイント故障だか放送が流れるのに、今は何も聞こえてこなかった。

 至るところで乗客に駅員が問い詰められている。だが、駅員の方も何故か口がはっきりと動いていなかった。

 少し経った後にかろうじて、運転再開できるかは未定だということは聞こえてきた。しかしその理由自体は、駅員自身も何て説明していいか分かっていない。そんな様子だった。

 何となく気配を殺して、滝野は電車を降りた。エスカレーターを何基も昇って改札まで行くと、外にはたちまち再開を待つ人の群れができていた。

 私鉄とJRを乗り継いで、車を回収しに行かねばならない。

 あの男や警察に目をつけられていたらと考えると気が気でなかったが、滝野にとっては、父親の正論の方が怖かった。


      ***


 他の路線も一部が止まっていて、滝野が家に着いたときには日が暮れかかっていた。車をガレージに入れ、天井裏にライフルをしまったら、滝野の心にようやく落ち着きが戻ってきた。

 めったに開けないスマホを見る。新橋駅で暴れ、警察官の追跡を振り切って逃げた男のことが大々的に報じられていた。

 警察では、その直前で起きた狙撃事件と商業ビルでの銃撃事件との関連を視野に捜査を進めているらしい。

 あの男だ。地下に下ってから追ってこないと思ったら、こんなことになっていたのか。電車が止まったのもそのせいらしい。これだけ大人数の警察官に暴行を加え、あげく逃走したのは前代未聞だそうだ。

 現代日本の警察でも、あの男は捕まえられなかった。やはりあれは、この世のものではないのかもしれない。

 そのままスマホで情報を集めていると、メッセージが一通入った。あのスマホからだった。

『感謝しろよゴリラ君。俺のおかげで逃げられたんだ』

 滝野は心臓を握りつぶされた気がした。

『やっぱりあなただったんですか』

『お、それはこっちのせりふだよ。この前はずいぶんはぐらかされたからな』

『意味のわからないことを言うからです』

『何の話だ。俺は常に確信しか突いてないよ』

 頭が痛くなってきた。

『そのことはもう良いです。貴方の目的は何なんですか? 僕を殺すことですか?』

 すると、その返答はなく、代わりにその番号から電話がかかってきた。

 滝野は慌ててその電話を切った。こんな化け物とこれ以上繋がりたくはない。今でさえ、軽く吐きそうなのだ。

『何だよお前。切るなよ』

 間髪入れずメッセージが飛んでくる。

『僕が与えた携帯電話ですよ。勝手な真似はしないでください』

『ああ、感謝してるよ。おかげで優雅なスマホライフを満喫できてる』

 やはりあの男は悪魔だ。今この日本でスマホを持っていない人間などありえない。滝野の熱い背中から、冷たい汗が流れる。

『何が目的ですか? 僕を殺すことですか?』

『そうだよ』

『なぜですか?』

『調子に乗ってる素人に正義の鉄槌を下そうと思ってね』

『あなた自身は警察でも何でもないんでしょう? 警察相手にあんなに暴れて。あなた自身だって悪人じゃないんですか?』

 しばらく返答がなかった。

『罪人と悪人は違うだろう』

『屁理屈こねないでください』

『分かった正直に言おう』

 数秒、間があった。そして一言。

『暇つぶしだ』

 滝野はスマホをシャットダウンし、壁に叩きつけた。


      ***


 その日からしばらくの間、滝野は次の行動を起こそうという気が起きなかった。部屋の外に出ることもできない。

 スマホを起動させ、また落とす。そんなことを何度も繰り返した。漫画も小説も、全く頭に入ってこない。

 ある日、意を決して滝野はスマホを起動させた。ショートメールの履歴を開く。あの男とのトーク画面を開いた。

『あなたは何故人を殺すんですか?』

 思っていたよりもはるかに早く、返信があった。

『おいおい、勝手に人殺しと決めつけてもらっちゃ困るな』

『じゃあ、違うんですか?』

『いや、そうだけど』

 やはりこの男は苦手だ。

『ふざけるのはやめてください。こっちは真剣なんです』

『お前の方こそもっと遊び心を持てよ。まあ、そんなものがあるんだったら無差別殺人なんて無益なことやるわけないがな』

 とことんまで煽ってくる男だ。だが、ここは耐えなければならない。

『人間なんてちっぽけな生き物じゃないですか。この全宇宙の巨大なサイクルの中で、人間の命が果たしている役割なんてほとんどない。人はただ生まれて、死ぬだけ』

 滝野はそこで少し指を止めた。そして再び打ち始める。

『人の命が大切なんてナンセンスなんです。だったら様々な要因で人が死ぬように、僕が原因の死があっても良いでしょう?』

 そこでまた数秒間があった。

『お前、何言ってんの?』

 滝野の顔から色が消えて、再びショートメールの画面を閉じた。

 だが、今までは得体の知れない怪物だった男とこうしてコミュニケーションを取り始めたことで、恐怖心は少し薄れていた。


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