怪物は愛を囁く

三歩ミチ

第1話

「アンドルネリーデ。あんたはこれからあの城へ行って、生まれたばかりの赤子を探しなさい。そうして、十五年後に死ぬ呪いをかけるんだよ」


 暗くてあらゆるものが混ざり合う混沌から引き出された俺の耳に、やせた老婆の声が入り込んでくる。人間なんぞに従いたくはないのに、俺の体は勝手に動いた。

 召喚されたのは久々だ。人間界に実体化した肉体は、ぎしぎしと軋んで痛む。「アンドルネリーデ」と呼ばれた俺の体は、禍々しい黒で、おぞましい形をしていた。


 外は夜だったが、闇より生まれた魔の者である俺には関係がない。言われた通りの方向にある城へ向かい、その中へ入った。


「ひいっ!」


 城内へ入った途端に出くわした人間は、白目をむいて泡を吐いた。


 俺は魔力を辿って赤子を探したが、城の中は人間ばかりで、どれが赤子のものか判然としなかった。城の中を歩き回ってみたが、出会う人間出会う人間、皆気絶するばかりで赤子の居場所はわからなかった。


 こちらを見る、丸い目に気づいたのはその時である。

 倒れた男の向こうから、小さな子供が覗いていた。


 赤子、と言うほどには小さくないが、まだ幼児。俺を見ても、気絶するどころか、瞳を輝かせていた。


『アンドルネリーデが、お前に問う。この城のどこに赤子が──」

「アンドルネリーデ? そんなの可愛くないわ。あなたの名前は、これからアンちゃんよ!」

『は?』


 アンちゃん。禍々しい魔の者には、似つかわしくない名だ。

 ふざけるな──と言い返す間もなく。名付けられた途端、俺の背丈はぐんと縮んだ。


「わあ、かわいい! アンちゃん、お人形さんだったのね!」

『そんな訳ないだろう、俺は恐るべきアン──アン──』


 アンドルネリーデ。

 あの老婆に付けられた自分の名前を口にすることは、もうできなかった。


「アンちゃん! よろしくね!」

『……アンちゃん』


 俺を召喚した老婆よりも、遥かに大きな魔力を持った幼女。そいつに「アンちゃん」などと名付けられてしまった俺の体は、熊のぬいぐるみの形になってしまったのだ。

 あの時押し付けられた頬の柔らかさを、俺は妙に生々しく覚えている。


***


「アンちゃん、今日からあたし、学園に通うの。一緒に行こう!」

『一緒に? 無理だ、リーン。この体では』

「大丈夫。もーっと、可愛くなればいいの」


 リーンは、その蜂蜜色の瞳を嬉しそうに細めた。俺の体が、ぐぐ、と縮むのを感じる。


 お前の意思次第で、俺の姿形は変わるのかよ。


 こんな妙な名前を付けられたのも初めてなら、こんなに長い間召喚されたのも初めてだ。いつの間にか美しい少女に育ったリーンは、手のひらほどの大きさに縮んだ俺を荷物に入れた。


「何にもないように、しっかり白魔法を張っておこうっと」


 覚えたての白魔法は、呪いを防ぐもの。城に魔を防ぐ障壁を張ってから、リーンは、学園に向かった。


「楽しみだなあ。ランドルフにも、久しぶりに会うのよ」

『……』


 リーンの独り言を無視したのは、虫の居所が悪いからではない。俺がリーンと話すのは、周りに誰もいない時だけだ。闇から生まれた魔の者を従える奴は、この辺りでは異常者扱いだ。リーンを困らせるのは、本意ではない。

 リーンは細い指先で俺の体を摘み上げ、じぃ、と眺めた。蜂蜜色の瞳に映る俺の姿は、黒い小さな熊の形をしていた。


「この馬車には誰も乗っていないから、話していいのよ」

『あのランドルフという奴を、俺は好かん』

「小汚い熊って言われたからでしょ? 洗ってあげたから、もう小汚くないじゃない」

『そういうことではない』


 ランドルフ・シェルトランドという小僧は、リーンの「婚約者」だ。

 彼らが初めて会った十年前のあの日、ランドルフはその冷たい青い目で俺を見下ろし、「小汚い熊」と罵倒した。

 あの頃の俺はリーンのままごと遊びでしょっちゅう庭に転がされていたから、小汚い自覚はあった。しかし奴はあまつさえ、この体を「耳が大きくて気持ち悪い」と言い放ったのだ。


 確かに、俺の姿は、熊にしては耳が大きい。だとしてもリーンが名付け、見出してくれた姿形なのだ。それを「気持ち悪い」と言うとは、ひどい美意識だ。

 俺は、リーンに貰ったこの姿をけなしたランドルフに憤り、そして、憤るくらいにはこの姿を気に入っていることに気付いた。

 別に、本当にこの姿を好んでいる訳ではない。魔の者に、自分の容姿なんて関係がない。ただ、これがリーンが見出してくれた姿だから。

 詰まるところ俺は、リーンを気に入っているのである。


 ランドルフは俺に、俺がリーンを気に入っていることを気づかせた。

 それでいてあの小僧は、リーンを手に入れるのである。


 婚約者は、結婚することで夫婦となり、生涯を共にするのだと教えてもらった。夫婦とは、相手の全てを愛し、愛される関係だと。

 今は俺がリーンの愛を受けているかもしれないが、「結婚」とやらがなされれば、その愛はランドルフに向く。


 だから俺は、ランドルフを好かん。

 そんなこと、決して口には出さないが。


***


「王女殿下。久方ぶりにお目にかかります」

「ランドルフ! 久しぶり。元気そうね!」


 俺の顔面が、ランドルフの胸にむぎゅうと押し付けられた。奴の制服の生地は硬い。体はぬいぐるみでも、感覚はあるのだ。男の胸板に抱きつくのはやめてくれ、という気持ちを込めて体を僅かに震わせた。


「人前でみだりに抱きつくのはお辞めください」

「どうして?」

「もう僕達は、子供ではないのですよ」


 リーンを引き離したランドルフは、困ったように眉尻を垂らした。金の巻き髪、青の瞳。顎周りは多少しゅっとしているが、幼い頃の面影はそのままだ。


 その顔を見て、俺は内心、子供じゃねえかと突っ込む。俺のことを「小汚い熊」と言い放ったあの頃と、雰囲気は何も変わっていない。

 口には出さないけどな。確かに今は「人前」だから。


「それに、何? その話し方。楽にしてくれていいのに」

「以前の僕が、不敬だっただけです。僕は臣下の身ですから」

「ええー……」


 リーンの顔は見えない。俺は今、リーンの胸ポケットに押し込まれているからだ。顔は見えずとも、その声色から、不服そうに頬を膨らませている表情まで思い浮かぶ。

 見かけ不相応に、あどけない内面。王城で甘やかされて育ったリーンは、俺の目から見ても、危ういほどに無邪気である。


「おや……」


 青い瞳が、リーンの胸を見る。

 ヘンな目で見るんじゃねえ、と念を送っていたが、ランドルフが見ていたのはリーンではなかった。


「その熊。どこかで見たような……?」

「ランドルフに初めて会った時、もっと大きい熊のぬいぐるみを持っていたわ」

「ああ、あの小汚い熊ですか」

「覚えていたの?」

「ええ。王女殿下には、黒は似つかわしくありませんから」


 ランドルフの目が、すっと細められる。


「……その熊も、黒ですね」


 一瞬、見抜かれたかと思った。

 俺の正体を──闇から生まれた魔の者であることを。


 王女であるリーンが、魔の者を従えていたらまずい。その常識がわかる程度には、俺はこの国に長居していた。

 この国は、太陽を信仰している。眩い光を尊いものとして仰ぐ彼らにとって、闇とは悪。


「たまたまよ。小さい頃に持っていたぬいぐるみと似ていたから、買ったの」

「そうでしたか。懐かしいことです」


 気のせいだったようだ。

 それはそうだ。ランドルフから感じる魔力は、一般人と相違ない。

 リーンの規格外な魔力に隠された俺の正体など、普通の人間が見抜けるはずがないのだ。


***


「ごめんね、アンちゃん。あなたにずっと我慢させて」

『構わん。仕方のないことだ』


 人前では話さない。

 リーンのための約束だから、我慢なんて苦ではないのだが。


 学園の裏庭、誰もいない茂みの陰で、リーンと俺はこそこそと会話をする。


「こんなことになるなら、アンちゃんはお家にいてもらったほうが、自由に過ごせたのにね」


 というのも。

 学園内では周囲に人がいるのはもちろんのこと。寮の部屋も二人部屋で、いつルームメイトが入ってくるのかわからない状況。俺とリーンが話せる機会は、ほとんどなかった。


『構わん。……講義とやらも、なかなかに面白いからな』

「それならいいんだけど。どの講義が面白かった?」

『呪いについて。俺達魔の者の力を借りて行う呪いを、人間がどう捉えているかわかって興味深かった』

「呪い、か〜」


 リーンは唇を尖らせる。片手で摘んだ俺の体を揺らし、反対の指で腹をつつく。腹の柔らかいところを触れられると、くすぐったい。俺は、短い熊の手をばたつかせた。


『止めろ』

「もしかしてアンちゃんは、呪いをかけるために呼び出されたの?」

『そうでなければ、何だと言うのだ』

「迷子になっちゃったのかなって。だって、誰にも呪いはかけてないでしょ? アンちゃんは、ずっとあたしと一緒にいるのに」

『それは、だな……』


 そういえば俺は、誰かに呪いをかけるために呼び出されたのではなかったか。召喚された者の願いは、何だったか。

 リーンの魔力に上書きされて忘れていたが、俺の元の名は、アン、アン──そうだ。アンドルネリーデだ。


 ざわ、と胸の内に落ち着かない感覚が広がる。


 生まれたばかりの赤子を探して。

 十五年後に死ぬ呪いをかける。

 あれは、誰のことだったんだ?


 リーンは、赤子ではなかった。

 あの時生まれたばかりの赤子といえば、リーンの。


「アンちゃん、どうしたの? 怖い顔してるわよ」


 リーンの蜂蜜色の瞳が、俺をまっすぐに見つめてくる。


『いや、何でもない』


 心の中のざわめきが、すっと静まる。

 リーンの魔力は温かく、強大で、穏やかだ。この魔力に包まれている限り、俺は「魔」でありながら、「アンちゃん」でいられる。


 リーンの身内に害をなすための命令など、思い起こす必要はない。俺は今、リーンに名付けられた「アンちゃん」なのだから。


「王女殿下?」

「ランドルフだわ」


 むぎゅ、と俺はリーンの胸ポケットに押し込まれる。胸が膨らんできたせいで、ポケットの中はずいぶん狭い。

 ランドルフの硬い胸に押し付けられた時と比べれば、千倍マシだ。リーンの胸に頭を預け、俺は全身を脱力させて「ぬいぐるみ」になりきる。


「今、どなたかとお話しされていましたか?」

「いいえ、あたしひとりです」

「皆が心配しますから、護衛も連れずに、こんな人気のない場所に来てはいけませんよ」

「ごめんなさい。探させてしまったのですね」


 リーンの口調は、ここ暫くで、ずいぶん上品になった。王族らしい、とでも言えばいいのだろうか。スカートをさりげなく払う仕草にも、優雅さがある。

 どれもこれも、ランドルフのせいだ。リーンは、すっかり見た目相応の淑女になっている。しかしそれは体面だけで、内面のリーンは無邪気な子供のままだ。

 リーンが思いのままに振る舞うと、ランドルフが嫌な顔をする。そのせいで最近のリーンは、自分の心を押し隠すようになった。リーンの顔色が悪いのは、ランドルフのせいだ。


 ──やっぱり、ランドルフは好かん。

 俺が向ける厳しい視線には気づかず、ランドルフはリーンを連れ、仲間の元に戻った。


***


 人間にとっての1年など、魔の者にとっては吹けば飛ぶほどに短い期間だ。


 1年経ち、2年経ち。

 学年の「最上級生」とやらになった頃には、リーンはすっかり王女らしい風格を備えていた。


「王女殿下、お先に失礼致します」

「ええ、あなたも」

「あまり根を詰めすぎませぬよう。続きはまた明日、我らも手伝いますゆえ」


 片手をひらりひらりと振るリーンに頭を下げ、「生徒会の後輩」達が生徒会室を辞す。持ち前の魔力で他を圧倒したリーンは、順当に生徒会長の席を得ていた。


「はあ。今日も疲れちゃったわ」

『リーン、よく頑張ったな』


 夜の生徒会室は、皆が辞した後は誰もいない。俺とリーンは、堂々と話せる場所を手に入れたのだ。


「褒めてくれるのはアンちゃんだけよ」


 リーンが俺を頭に乗せるので、俺は熊の小さな腕を使い、ぽんぽんと髪を撫でる。リーンの栗色の髪は艶やかで、触れる手に滑らかな感触が返ってくる。


「はあ」


 と、またため息。

 最近のリーンは疲れているらしく、ため息ばかりだ。


『手紙のことか?』

「そう。卒業したらすぐに、結婚の儀を行うって」


 俺はポケットから内容を一緒に見ていたから、知っている。


 結婚したら、リーンは全ての愛を、ランドルフに向けることになる。結婚とはそういうものらしい。

 俺は、胸の奥がちくりと痛むのを無視した。最初からわかっていたことだ。


 リーンを魔に引き込むことなど、俺にはできない。リーンほどの魔力がある者を、一方的にこちらに引き寄せることはできないのだ。

 本人が望めば別だが、リーンがそれを望むはずもない。結局のところ、リーンのことは奴に委ねるしかない。リーンもそれを望んでいる。わかっている。


『リーンにとっては、望むところだろう?』

「それは、そうよ。婚約者だもの。でも……思ったより早かったわ。もう、結婚だなんて」


 俺は、リーンの頭から下ろされた。ぽふ、と。俺の腹に、リーンの顔が押し当てられる。


「あたしに、シェルトランド公爵家の夫人なんて務まるのかしら」

『リーンなら何だってできるさ』

「ランドルフの理想通りに振る舞うなんて、できないわ。今はまだ偶にだからいいけれど、結婚したら毎日、ずっと、よ」


 はあ。リーンのため息が、俺の腹に吹き込まれて熱い。


 リーンの弟は王太子であり、リーン自身は降嫁して、ランドルフに嫁ぎ、シェルトランド公爵家の一員となる。人間の政治はよくわからないが、とにかくそういうことらしい。


『俺がいるだろう』

「そうね。アンちゃんがいれば、やっていけるかも」


 リーンには俺が必要だ。

 そう気づいた時、俺の短い背筋に、ぞくぞくと妙な熱が走った。

 もっと必要とされたい。もっと、リーンのためになることを。──何だ、この感情は?


 これはきっと、魔の者の本質なのだ。魔の者は、召喚者の願いを叶える。人間じみた妙な感情が、芽生えるはずはないのだから。


『俺がいれば、大丈夫さ。どんな話でも聞いてやる』

「ありがとう、アンちゃん。あたしのことをわかってくれるのは、あなただけよ」

『ああ』


 なのに。なのにどうして、リーンの言葉が、こんなにも全身をぞくぞくと震わせるのだろうか。

 俺だけが、リーンをわかっている。

 なぜそれが、こんなにも──嬉しい、のだろうか。


 人間界に長居しすぎて、俺はどうも、おかしくなっているらしい。


***


「王女殿下は、次は黒魔法の講義ですか」

「ええ」

「あまり黒魔法に傾倒しては、良い顔をしない者もおりますよ」


 リーンの隣を歩くランドルフが、心配そうな顔をする。

 この案じるような顔で、ランドルフはリーンの行動を制限するのだ。口調も、仕草も、親しくする友人も。


「危ういものほど、正しい知識を得た方が良いかと思っていましたけれど……あなたが、そう言うのなら」

「いえ。結局は、王女殿下のご判断ですから」


 リーンに判断を委ねると言っておきながら、口は出してくる。リーンは結局、ランドルフの言うことに従うのだ。

 黒魔法の講義を受けてみたいと言ったのは、俺なのに。

 結局は、ランドルフが優先される。


 ざわ、とうごめく胸の感覚が「嫉妬」であることを、俺はいい加減認めていた。


「ランドルフが受けている、剣術の授業でも受けてみましょうか」

「受けているのは、荒くれ者ばかりですよ。刺繍なんていかがですか?」

「刺繍……刺繍、ねえ」


 きっとリーンは、刺繍の授業を受けるのだ。裁縫になんて、一分の興味もないのに。

 ランドルフは、リーンのことを何もわかっていない。わかろうともしていない。婚約者のくせに。


「きゃっ!」


 女の声が上がって、ランドルフの姿が視界から消えた。


「あら、大丈夫ですか?」

「ごめんなさい! ぶつかってしまって──や、やだっ! ランドルフ様!」


 リーンが屈んだことで、起きたことが見えた。ランドルフは、床に転がされている。上には、リーンと同じ制服を着た女子がのしかかっていた。この女子がぶつかり、ランドルフが転んだらしい。


「だ、大丈夫だ。どいてくれ……」

「い、痛くないですか? 頭は打ってませんか?」


 女子はランドルフの上に乗ったまま、あれやこれやと世話を焼く。いいのだろうか。傍から見れば、その光景は、まるで。

 リーンの手が、俺をポケットの上から押さえた。その手のひらが震えている。


「人前で、みだりに抱きつくのはおやめになってくださる?」


 声だけは、凛として響いた。リーンの緊張に気づいたのは、俺だけだったろう。


「あっ! ご、ごめんなさいっ」


 女子が漸く退き、俺からも、隠れて見えなかったランドルフの顔が見えた。


「大丈夫だ。気に、するな」


 何だ、その顔は。

 ランドルフの頬は、真っ赤に上気していた。


***


『リーン。奴のために、そこまでする必要はない』

「でもね、アンちゃん。他に、あたしにできることってあるの?」

『だとしても……あの女に惹かれるランドルフが悪い。リーンが、気を遣う必要がどこにある』

「あーもう、はっきり言わないでよ。あたしもわかってるわ、ランドルフがアーニャにぞっこんだってことは」


 アーニャ。それが、ランドルフにぶつかった女子の名だった。


 深夜の生徒会室で、ちくちくと、リーンは刺繍に取り組む。王家の花と、公爵家の紋章が絡んだ象徴的なモチーフを、真っ白なハンカチに刻み込んでいる。

 手元が狂って、リーンが針を指に刺した。


『ああっ!』


 血がにじんでしまう前に、俺はハンカチを引っこ抜く。

 いっそ血で汚れてしまえばいいのだが、そうなったらリーンがいっそう悲しむことも、俺にはわかっていた。


 食事の時に隣に座り、同じ皿のものを食べようとする。

 教室の移動中、手を繋ごうとする。

 夜祭に誘う。ダンスを申し込む。華やかなドレスを着る。


 かつてリーンが行ってはランドルフに「はしたない」と叱られてやめたそれらを、アーニャは全て行った。

 そうしてなぜかランドルフは、「はしたない」と叱るどころか、頬を染めて受け入れているのだ。

 代わりにリーンが、かつてランドルフに言われたように「はしたない」と苦言を呈し。そしてなぜか、ランドルフに「権力をかざして口出しをするな」と叱られる。

 今起きているのは、そんな不可解な出来事だった。


「どうしてだと思う? アーニャが可愛いのは認めるけれど、あたしだって、負けていないわよね?」

『アーニャなんかより、リーンの方が数百倍美しい。あいつに見る目がないんだ。こんなにリーンは、あいつのために自分を律して来たのに』

「アンちゃん、ありがとう。そうよね、あたし、頑張ってきたわ」


 リーンが、浮かない顔をする。最近はずっとそうだ。俺は腕をぐっと伸ばし、リーンの顎先に触れた。リーンは、顔を机に下ろす。近くなった頬を、ぬいぐるみの手でぽふぽふと撫でる。リーンは長い睫毛を伏せた。


「でも、頑張り方が違ったのね。だってランドルフは、アーニャが好きなのよ」

『今だけだ。結婚すれば、互いに愛し合うものなんだろう? ランドルフだって、夫婦になれば、リーンのことを愛するはずだ』


 夫婦というものは、そういうものだ。

 リーンに教わってから、俺はずっとそう信じていた。


「そうだったらいいのにね」


 なのに俺に教えてくれたリーンは、物憂げな表情のまま。


「愛のない夫婦には、なりたくないと思っていだけれど」


 愛のない夫婦なんてものが、あるのか。


「後継はつくるけれど、愛人を囲うご主人は多いそうよ」

『愛人? というのは何だ』

「ええと……男の人がね、妻以外に、愛する人を持つことよ」


 妻以外の人を、愛することが?


『妻の方はどうなんだ? 夫以外に、愛する人を持つことは』

「そういう人もいるかもしれないわね」


 夫婦だからと言って、必ずしも愛し合う訳ではないのか。

 結婚しても、リーンが俺に、ランドルフへ向けるより強い愛情を向けることはあり得るのか。


「こんな風に言葉を教えるのは、久しぶりね。アンちゃんも、ずいぶん人間の世界に詳しくなったものだわ」


 あまりの衝撃に揺れる俺は、リーンの言葉への返答を持ち合わせていなかった。


***


「興味深いでしょう? この本」


 リーンが読んでいるのは、「黒魔法」に関する本。ちょうど、魔の者を召喚する術について述べられた部分だ。

 今まで誰も手に取らなかったのだろう、その本は古い割に、綺麗な状態を保っていた。


「人間界に顕現すると苦しいから、召喚者の言うことを聞くって本当?」

『それはまあ、そうだな』


 俺は、召喚された瞬間のことを思い出す。大きな体はぎしぎしと軋み、傷んでいた。体が馴染むまでは、あのような痛みを覚えるのだ。

 長居する間にすっかり馴染み、今は何の苦痛も感じないが。


『それに俺たちは、召喚者の願いは叶えるものだという刷り込み──本能? がある』

「そうなんだ。アンちゃんは、だからあたしの願いを叶えてくれるのね」

『リーンに、願いがあるのか?』

「あるわよ。気づいているでしょう?」


 リーンは悪戯っぽく笑うが、俺にはわからなかった。リーンの願いは、おそらく、ランドルフとの幸せな生活。それを叶えることは、俺の力ではできないのだ。


「こんなもの読んでいたら、ランドルフに怒られてしまうわね」


 リーンは、本をぱたりと閉じる。


『大丈夫だろう。リーンがしたいように、すれば良い』

「……嬉しいことを、いつも言ってくれるわよね。あなたがいるから、あたしは頑張れるわ」


 笑うリーンの顔が妙に寂しげな理由も、俺にはわからなかった。


***


『美しいよ、リーン』

「……ランドルフも、そう言ってくれたら良いのにね」


 桃色のドレスは、リーンによく似合っていた。俺は、リーンの腰を巻くリボンに挟み込まれる。見えないように、巧みに隠された。


「ごめんね、苦しくない?」

『大丈夫だ』


 卒業を祝う舞踏会に、ついて行きたいと言ったのは俺だ。さすがに人形を持って会に向かうのは、淑女としておかしい。いろいろと相談して、ドレスの一部に紛れ込ませてもらうことになった。

 きつめに縛られたリボンは苦しいが、構わなかった。ランドルフはアーニャばかり見ていて、リーンはいつも傷ついている。今日だって、きっとそうなる。傷つくとわかっているのに、リーンをひとりにしたくはなかった。


 視界のないまま、足音と魔力だけで大体の居場所を予想する。コツコツと硬質の音が響いた後、急にたくさん人のいる場所に出た。ここが、舞踏会の会場だろう。人間の魔力が混ざり合い、何がどうなっているのか、捉えるのが難しい。


 懐かしいな、と思った。

 王太子を呪うために城へ乗り込んだ時も、こんな風に人間がたくさんいた。そうして、リーンが俺を見つけてくれたのだ。


「あら? ランドルフがいないわ……」


 学園の舞踏会は、卒業時の成績順に踊る。首席で卒業するリーンは、婚約者のランドルフと最初に踊るはずだった。

 音楽は、既に始まっている。なのにリーンの近くに、ランドルフの魔力はなかった。


「王女殿下、ランドルフ様がいないようですわ」

「まあ……卒業舞踏会なのに、エスコート役もいらっしゃらないなんて」


 ひそひそ、と。

 交わされる言葉は、俺の鋭い耳には届いていた。

 小馬鹿にした囁きは、ここ最近では聴き慣れたものだ。


 ランドルフがあからさまにアーニャを厚遇するようになるにつれ、リーンの周りでは、こうした陰口がどんどん増えた。


「困りましたわね」


 誰ともなく、リーンが呟く。

 その顔が、作り笑いを浮かべているのも俺は知っている。

 気にしていないような顔をしていて、その実、深く傷ついていることも。


「いったん音楽を止めてくれ!」


 朗々と響き渡った声こそ、ランドルフのものだった。


「なにかしら……」


 不安げなざわめきが、辺りに広がる。


「リーン。ここへ」

「……はい」


 ランドルフが、リーンを呼び捨てにした。今までずっと、「王女殿下」と呼んでいたのに。


「そちらにいらっしゃる陛下、そしてお集まりの皆様に、証人となって頂きたい。……僕は王女殿下の婚約者として、最も近くで、いつも過ごさせていただいておりました」


 嘘だ。一番近かったのは、俺だ。

 ランドルフの澄ました物言いが癪に触る。


「そして、気づいてしまったのです。王女殿下が、魔の者を従えた、反逆者であることに──」


 なんだって。

 気づかれていたのか。いつからだ?


 リーンの手のひらが、リボンの上から俺をぐっと押さえる。リーンの魔力は、強大だ。それに包まれた俺の正体が、ばれるはずはなかった。


「なぜ、そのようにお考えになったのですか?」

「はっ! しらばっくれるのだな。ならば、証人を呼ばせてもらおう!」


 会場に入ってきた魔力に、俺は覚えがあった。


「なんて酷い……そんな風に拘束するなんて」

「一度は王太子への呪いを企てた魔女に、情けをかけるのか。やはりお前は、反逆者なのだな」

「弟への、呪いを企てた?」


 俺を召喚した、老婆の魔力だ。

 胸が、ざわざわと落ち着かなくうごめく。


「この魔女が、自身が召喚した魔の者が、誰かによって奪われたと証言した。皆、この魔女の魔力の大きさはわかるな? 魔女から魔の者を奪うほどの魔力を持っているのは、ここに、リーンしかいない」


 確かに、あの老婆もそれなりに強大な魔力を持っている。それ以上の魔力を持つ者は、王を含めても、リーンしかいない。それは歴然とした事実で。


「それに! このアーニャが、リーンが魔の者と話していると教えてくれた。俺も、確かに見たことがある。リーンはいつも、肌身離さず、魔の色をした人形を持ち歩いていた。あれこそが、魔の者だったのだ!」


 いつ見られたのか?

 わからないが、事実であるからこそ、心当たりは探せばあった。気の緩んだ瞬間は、きっとどこかにあったのだ。まさかそれが、俺を召喚した老婆と結びつくことなど、あり得ないと思っていた。


「俺は王女殿下と婚約していたが、この事実をもって、破棄されることとなった。……ですよね、陛下」

「ああ。皆、我が娘が騒がせてすまぬな」


 それは、リーンの父の声だ。リーンの体が、ぶるりと震えた。リーンが愛する父は、どんな眼差しを、今リーンに向けているのだろう。


「リーンは反逆者として、王家の地下牢に幽閉する。反逆者である証拠を献上した功に報いるため、シェルトランド公爵家の御息女を、王太子の婚約者として迎え入れることとなった。併せて報告させて貰おう」


 リーンの体が、震えている。彼女の味方は、俺しかいない。なのに俺は今、慰めることも、庇うこともできない。もどかしくて、苦しくてたまらなかった。

 出て行って、リーンを守ることができたら良いのに。

 それをしてしまったら、本当にリーンの立場がなくなることもよくわかっていた。リーンが今断罪されているのは、俺のせいだ。


「我が娘よ。何か、弁明はあるか」

「……いえ。ただ、私との婚約を破棄したら、ランドルフはどなたと縁を結ばれるのですか」

「さあ……わしにはわからぬ。どうだ、ランドルフ」

「ここにいるアーニャと、縁を結ばせていただくつもりですが。……その話は、この場では相応しくありませんので」


 リーンは何も言わなかった。

 ランドルフは、アーニャを選んだのだ。

 これがリーンと縁を切り、アーニャと結ばれるために仕組まれたものであることは俺にも薄々理解ができた。


 リーンは乱暴に、会場から連れ出された。金属のにおいがする。騎士達が、リーンの左右を固めているらしい。


「人形をどこに隠した! 言え!」


 騎士達の魔力では、俺の居場所はわからないのだ。そう悟った俺は、とにかく逃げようと思った。このまま捕まって、祓われてしまったら、リーンはきっと酷い目に遭う。「反逆者」の末路が悲惨なものであることくらい、俺にも充分察しがついた。


「こんなところにある訳がありません。部屋に、置いてあります。きっと今頃、逃げていますわ」


 リーンは、嘘をついた。

 これは、逃げろということだ。

 リーンの手が滑り、リボンが僅かに緩められる。今なら抜けられそうだ。


「お前は部屋を探しに行け。悪いが、身体検査をさせてもらおう」

「触らないで! ……自分で脱ぎますわ。脱いだ後の服を、あらためれば良いでしょう」


 するり、と布の擦れる音。俺は体ごと、床に放られた。ぱさぱさと、上に布が落ちてくる。俺の姿が見えないよう、わざと服を上に重ねているのだ。


「やだ、見ないでくださる?」

「そういう訳にはいかぬ。何か隠し持っているかもしれん」

「隠してなど、いませんわ。肌を殿方に見られることが、恥ずかしいだけです。あなたが私の初めて、なので」

「なんと……」


 魔力の揺れで、騎士の意識が、リーンに集中したのがわかった。

 今だ。俺は服の隙間からまろび出て、とにかく暗がりを目指した。

 目立たない場所へ。誰にも気づかれない場所へ。見つからなければきっと、リーンを助けられる。リーンの味方は、俺だけなのだ。


 熊の手足では思うように移動ができなかったが、俺はどうにか家具の下に潜り込んだ。埃まみれの家具の下を通ることで、誰にも気付かれずに、城の中をうろつくことができるようになったのだ。

 見えなくても、リーンの魔力を辿ることはできる。俺は家具の下に隠れたまま、リーンの連れていかれる後を追った。


「この下が地下牢だ。行け!」


 リーンが連れて行かれた「地下牢」の前に家具はなく、俺は行先を見届けることはできなかった。

 黒い熊の人形は、探されている。見つかったら、もうどうにもならない。策を練らなければ。

 俺は地下牢に向かう階段の側の、調度品の下に身を潜め、機を伺った。


***


「あの魔女が、『王太子を呪うよう命じたのはシェルトランド家だ』と証言したらしいぜ」

「追い詰められた人間は、あることないこと言うからな」


 地下牢のそばには騎士が出入りするから、その後の情報はよくわかった。俺を召喚した魔女はあのまま捕らえられ、情報を吐かされたようだ。


「あながち嘘でもないかもしれんぞ。王家の血筋は、王女殿下と王太子殿下だけだったろう? もし王太子殿下が呪いを受けたら、王女殿下の血縁から次の王太子が選ばれたはずだから──」

「お前、滅多なことを言うもんじゃねえ。反逆罪に処されるぞ」


 老婆が、シェルトランド公爵家に王太子の暗殺を依頼された?

 その噂は、全てを知る俺にはしっくり来た。


 もし、王太子が呪いによって命を落としたら。

 王太子が十五歳になるのは、来年だ。リーンとランドルフの結婚がなされてから、王太子が死ぬことになっていた。

 他に血を引く者がいなければ、次の王太子は当然、リーンとランドルフの子になる。その際、シェルトランド公爵家は大きな権威を持つことになる。


 どうして、その計画はそのまま進まなかったのだろう。俺はリーンに名付けられてしまったが、魔の者は俺一人ではない。他の者を呼びつけて、呪いを企てることは可能だったはずだ。何しろリーンの身柄は、ずっと学園にあって──ああ、そうか。

 そうだった。

 リーンは学園に来る時、城に強力な白魔法をかけて行った。リーンを上回る魔力を持つ者が召喚しないと、呼び出した魔の者が、あの障壁をくぐるのは不可能だっただろう。


 そうだ、きっとそうだ。

 王太子を呪い殺すことができないから。

 シェルトランド公爵家は、次の手を考えたのだ。

 王太子を守っていたリーンを反逆者に仕立て上げ、自身はその功として、王家に取り入る──という策を。


 リーンをこのまま、良いように利用させてたまるか。

 どうにかして、救い出さないと。

 どうにかして──。


***


 騎士の巡回時間を把握し、魔力のより少ない騎士がやってくる時間もわかった。万全を期した方が良い。

 俺は、魔力の少ない騎士がやってくる時間に合わせて、家具の下から這い出た。地下牢への扉が開く。騎士の後ろから滑り込み、階段を下りる。


 地下牢への階段は薄暗く、埃まみれで黒い俺は、全く目立たなかった。階段の隅に寄り、交代の騎士をやり過ごす。視線の離れた隙を見て──地下牢の策の間から、中へ滑り込んだ。


 リーンは、そこにいた。


 ぐったりと、横たわっていた。


 薄汚れた服を1枚被せられ、寒さに震えていた。美しい栗色の髪は、すっかり艶を失っていた。

 それでもリーンは、美しかった。

 俺は、騎士の視界に入らない、リーンの背後に滑り込む。


 ぐ、とリーンの手が動いた。

 その痩せた手のひらが、俺に触れた。


「はっ」


 浅く息を呑んだリーンは、それ以上の反応を押し殺した。しかし、リーンの緊張が解けたことが、俺にはよくわかった。

 俺は薄汚れた腕を伸ばし、リーンの指先を掴んだ。そうして、いつか生徒会室でしたように、もう反対の手でそっと撫でる。


「……っ、うぅ」


 リーンは、泣いていた。背中を震わせて、声を殺して。俺は彼女を宥めることもできず、ただ、指先を撫で続けた。


***


「……アンちゃん」

『……』


 掠れた声で、リーンが俺の名を呼ぶ。


「騎士様、居眠りしちゃったわ。だから話して大丈夫」

『リーン……』

「小さな声で、ね。……ありがとう、アンちゃん。来てくれて嬉しいわ。あなたが、祓われていなくて良かった」


 リーンと目が合う。蜂蜜色の瞳が、優しく細められる。


『俺は、リーンを助けに来たんだ』

「無理よ。あたしは、反逆者だもの」

『確かにお前は俺を従えていたが、悪いことは何もしていないじゃないか。嵌められたんだよ、リーンは』

「魔の者を従えること自体が反逆なのよ、アンちゃん。でもあたしは、確かに悪いことをしたとは思っていないわ。アンちゃんがいなければ、あたしは早くに精神を病んでいたと思うもの」


 やはりリーンに、俺は必要だったのだ。

 こんな状況でも、俺の心は、その事実に喜びを覚える。


『俺と一緒に逃げよう、リーン』

「だめよ。ここからは出られないわ」

『俺の体は、リーンの意思次第で変わる。最初に出会った頃の姿を、覚えているだろう? あの形なら、こんな牢屋なんぞすぐに出られる』

「……それは」


 リーンは、一瞬黙った。


「……忘れちゃったわ」


 リーンが、忘れているはずがない。


『なぜだ。俺に頼ってくれれば』

「しーっ! もう起きるわ」


 居眠り騎士が目覚め、リーンとの会話は強制的に終了した。


 なぜリーンは、俺に頼ってくれないのだ。

 リーンには、俺しかいないのに。なぜ、この手を取ってくれないんだ。


 リーンの背に寄って、身を隠す。その背にぴったりと寄り添っても、リーンの気持ちがわからなかった。


***


「反逆者よ。お前の処置が決まった。魔の者に命じ、国家転覆を企てたこと。その罪は──」

「国家転覆を、企てた?」

「魔女に王太子の暗殺を命じたのは、お前だと証言があった。よって、その命をもって償ってもらうこととなる」


 それは、事実に反する。

 リーンが弟である王太子を殺めようとしたことなど、ただの一度もない。


「そうですか……」


 リーンの声には、諦めの色がにじむ。

 諦めては駄目だ、事実に反すると言わないと!

 俺はリーンの背中を押して訴えたが、彼女はびくりともしなかった。


「わかりましたわ。私はもう、何も言いません」


 長い牢獄生活は、リーンから、抗う意思を奪ってしまっていた。

 やはり俺には、何もできないのだ。強い虚脱感に襲われた俺は、リーンにもたれたまま、何もできなかった。


***


 その日。

 リーンは、俺を服の中に放り込んだ。後ろ手に縛られた手首と腰の隙間にしがみつくことで、俺はリーンと共に牢を出た。

 そばには常に誰かがいて、リーンと言葉を交わすことは叶わなかった。


「……眩しい」


 外に出ると、リーンがぽそりと声をもらす。それに反応する者はなかった。


「来たな、反逆者」

「……ランドルフ」

「名を呼ばれるのもおぞましい。僕は、王太子の外戚となるのだ。これ以上、不敬の罪を重ねるのはやめろ」

「王太子の外戚……そうでしたね。おめでとうございます」


 リーンの弟である王太子と、ランドルフの妹の婚約が発表された場には俺たちも居合わせた。やはり彼らの目的は、シェルトランド公爵家と王家の距離を詰めることだったのだ。

 リーンは、良いように使われただけだ。


「アーニャ様も、息災でいらっしゃいますか」

「それを聞いてどうするのだ? 王太子殿下を呪おうとしたように、呪うつもりか」

「いえ、そうではありません」


 そもそもリーンが、誰かを呪おうとしたことはない。ランドルフだって、わかっているはずだ。


「どうせ死ぬのだ。教えてやっても良い。アーニャは元気だ。僕の子を宿している。あの愛らしいアーニャの子なら、さぞ可愛らしいだろう。可愛げのないお前と違って」

「可愛げの、ない……」

「そうだ。いつも堅苦しいし、完璧すぎて隙がない。いつからそんな風になったんだ? 昔はもっと、王女らしくない、天真爛漫な……」

「それは、あなたが……!」


 ランドルフが咎めるから、リーンは完璧な淑女になったのに。あんまりな言い草だ。俺は苛立って、腕に力を込めた。リーンの手首が、ふるふると震えている。


「火刑は、熱くて苦しいという。せいぜい、呪われる恐怖に苛まれ続けた王太子の苦しみを味わうんだな」


 周囲で、魔力が弾けるのがわかった。リーンの足元から、熱気が上がってくる。

 このままでは、俺も燃えてしまう。俺はリーンの背を這い上がり、首元から顔を出した。

 リーンは、手足を括られ、高いところに吊られていた。ランドルフは遠く下方にいる。小さな熊である俺の姿は、きっと見えないだろう。


「ごめんね、アンちゃん。ずっと側にいさせてしまって」

『リーン? どういうことだ』

「一緒にいてくれて、嬉しかったわ。あたしが死ねば、アンちゃんはきっと、闇に還れるのでしょう?」

『そんな──』

「漸く、あなたを解放してあげられるわ」

『何を──』

「あたしが、あなたに側にいてほしいと願ったから。その願いを叶えてくれていたのよね。あなたには辛い思いをさせたわね」

『違う、リーン。それは違う』


 リーンはかつて、「黒魔法」の本を読んでいた。そこには、「魔の者は召喚者の願いを叶える」と書かれていて。俺は確かそれを、肯定した。


 リーンはずっと誤解していたのだ。

 リーンの願いは俺と共にいることで、俺はそれを叶えているのだと。死ぬことで、俺を解放できると思っているのだ。


『俺は、俺の意思でお前のそばにいたんだ、リーン。大体お前は、俺の召喚者じゃないだろう!』

「物心つく前のあたしが、召喚したんじゃないの?」

『違う! 俺は、自分の意思で! お前が必要としてくれるのが嬉しくて、傍にいたんだよ』

「あれは……熊の人形だ! やはり魔の者と話しているぞ、あいつ! 火力を強めろ、早く焼き尽くすんだ!」


 俺たちを、強い火が包む。リーンは顔を歪めた。


「あなたの意思だと言ってほしいから、そう言ってくれるのね。アンちゃんは、いつもそうだわ。あたしの言って欲しいことを、言ってくれる」

『信じてくれリーン、俺は自分の意思で、お前の役に立ちたいんだ。覚えているだろ? 俺の名を、呼んでくれたら』

「ごめんなさい、ありがとう」


 ごう、と火が強まった。俺の体もじりじり焼ける。リーンの服に火が回った。

 げほ、とリーンが熱気にむせる。

 もう時間がない。俺が何を言おうと、リーンはそれを、自身の望みだと思い込んでいる。


『やめてくれ、リーン。このまま死のうとしないでくれ。俺に、助けさせてくれ』

「ありがとう、アンちゃん。最後まで一緒にいてくれるだけで嬉しいのに、あたし、わがままなのね」


 違う。違うのに、俺の気持ちは、全くリーンに伝わっていない。


『愛しているんだ! リーン、俺は、お前のことを』

「えっ」


 リーンの顔が、ふっと緩んだ。


「……そんなことまで言ってほしいだなんて、思ったこともなかったわ」


 燃え盛る火の向こうで、リーンの頬に涙が伝う。


「本当に、あなたの意思なのね」

『そうだと言っているだろう。頼むリーン、このまま死ぬなんてことは』

「……ありがとう。アンドルネリーデ、あたし、死にたくないわ!」


 ぶわ、と。

 リーンの魔力が俺を包み、俺の体は文字通り広がった。巨大な、闇そのものの手足。片手でリーンの体を引っ掴み、縄を引きちぎった。


「大きくなった! 熊の人形の姿をしているのでは、なかったのか!」

「逃がすな! 燃え尽くせ!」


 火力が強まったが、「アンドルネリーデ」の形をした俺には、痛くも痒くもない。


 天井に拳を振るうと、大きな穴が開いた。俺はそこから、外に這い出る。


「げほっ」


 火に喉をやられたリーンは、激しく咳き込んでいる。早く休ませてやりたい。俺は高く飛び上がった。そのまま、人のいない場所を目指す。


『ここなら大丈夫だろう』

「……あたし、生きてるのね」

『そうだ。良かった、生きたいと願ってくれて』


 王都を囲む森の中、柔らかな葉の上にリーンを寝かせる。服は全て焼け落ち、皮膚も赤く火傷している。美しい栗色の髪は、焼けちぢれていた。

 でもそこには、生きているリーンがいた。息をしている。話している。


「やっぱりあなたは、あたしの願いを叶えてくれるのね」


 笑っている。

 俺の胸が、ぎゅうと縮んだ。


『違う。俺はただ』

「わかっているわ。あなたの言葉を、疑ってごめんなさい。アン──アン──アンドルネリーデ」


 蜂蜜色の瞳が、細められる。

 そこには、俺の姿が映っていた。黒く、輪郭も判然としない、闇の者の形。


 こんな姿では、リーンの側にはいられない。

 もう、熊の形には戻れないだろう。俺は「アンちゃん」から、「アンドルネリーデ」になってしまったから。


『どこか安全なところまで送り届けよう。そうして俺は、闇に還るよ』

「どうして?」

『どうして、って。こんな姿では、お前の側にはいられない』

「どうして?」

『え……』


 リーンの純粋な瞳は、初めて会った頃と同じだった。恐れる様子が微塵もない。こんなに、おぞましい姿だというのに。


「アンドルネリーデは、どうしたいの?」

『俺は』

「あたしは、あなたの本当の気持ちを知りたい」

『俺は……お前と一緒にいたい。当たり前じゃないか。どんな思いをして、助けたと思っているんだ』


 リーンが、片手をもたげる。

 俺の顔に、焼けただれた手が触れた。

 熱い。それでいて、その手つきは優しかった。


「なら、一緒にいましょうよ。あなたがいれば、あたしは、頑張れるわ」

『……許されるのなら俺は、死ぬまで共に』

「許すも何も──本望だわ」


 リーンの傷が癒えてから、俺たちは国を離れ、身一つで旅に出た。


***


 魔の者を従えた、強大な魔法使い。この大陸の逸話には、あちこちでその存在が現れる。

 魔法使いは魔の者と共に、時には暴れる魔物を追い払い、時には川を広げて洪水を防いだ。

 その者達がどこから来てどこへ去ったのか、知る者はない。

 ただ、逸話の最後には、必ず同じ言葉が付く。


「魔法使いと魔の者は、手を取り合って、この地を去っていった」


 死が二人を分かつまで。魔法使いと魔の者は、共に旅を続けたらしい。

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怪物は愛を囁く 三歩ミチ @to_moon

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