02 新しい生活
食事を求める声を疑問に思ったが、ホウキの弁を耳にした途端、ラズリのおなかがぐーとなる。
そういえば朝から掃除をはじめて、このホウキに遭遇して、なんだかんだで時間が過ぎている。時計はとっくに頂点を超えていた。
このホウキがなにをどうするのか。ラズリはむしろ興味本位で、自分と同じものを提供してみることに決めた。
今朝買ってきたパンに軽く焦げ目をつけて、バターを塗る。
近所のホルッドじいさんが焼くパンは、ラズリが子どものころから好きな味。祖母とも旧知の間柄ということもあり、亡くなったあともよくしてくれている。
くず野菜を煮込んだスープには、乾燥パスタを割り入れて火にかける。あまり理解は得られないが、クタクタになるまで煮込んでしまったほうがラズリの好みだ。遠慮なくたっぷりと煮込んで、スープカップに注ぎ入れた。
いつもなら、ここで余ったスープを晩御飯にまわすところだが、今日はホウキがいる。
(ほんとに食べるのかな?)
固形物と液体。両方を用意して、ホウキが立つ食卓に向かった。
ラズリが椅子に座ると、ホウキもまた椅子に腰かけるようにして、斜めになる。ようするに「椅子に立てかけた」ような状態だ。これがホウキにとっては「着席」なのだろう。いや、たぶん。
さて、果たしてホウキは、これらを食べるのだろうか?
食前の祈りを捧げてスプーンを手にしたラズリだが、ちらりと見やった対面を見て、そのまま手を止めた。
スープがまるで霧のように空中へ浮かび上がり、柄に取り付けられた藁束へ向かっていく。風もないのにわさわさとうごめいた藁は、まるで咀嚼するように上下左右にちいさく動く。ラズリが見ている先で、次はトーストが粉末となって藁の中へ向かい、同じようにして消えた。
「なんだ下僕。とぼけた顔でこちらを見るとは失敬な。本来であれば、吾輩の顔を拝むことすらおこがましいということを、とくと心に刻みつけろ」
いや、顔ってどこ。その藁? ってか、口はどこ?
いろいろとつっこみたいところはあったが、食事を再開する。
見ないようにしよう。考えちゃ駄目よ、ラズリ。
簡単な食事ではあったが、ホウキは満足したらしい。デザートの果物も食して、機嫌がよい犬のしっぽのように、その穂先を揺らした。
「ふん、五百年ぶりの食事は、悪くない。下僕、吾輩はすこし休む」
そう言ったかと思うと、静かになった。おそるおそる近づいて藁束に耳を寄せると、寝息らしきなにかが聞こえてくる。
(近くで見ても、やっぱりホウキだよね、これ)
近所の商店で売っていそうな安価な藁ボウキ。屋外よりも屋内の掃除に向いているホウキだ。倉庫の床は板張りだったし、内部の清掃用に置いてあったのは間違いないだろう。
こんなことは学校でも教えてくれなかった。動物の声が聞こえたりする物語はあるけれど、無機物が動いてしゃべるだなんて、どういうことだろう。
斜め状態で眠っているホウキを、そっと手に持ってみる。かすかに震えているが、とくにぬくもりは感じられない。
しばらく考えたのち、ラズリはホウキを部屋の隅に立てかけておくことにして、買い物に出かけた。
ホーキンスは目覚めた。
といっても、現在の彼に「目」と呼べるものはない。
いや、五感は存在しているのだから、ないわけではないのだが、人間や動物が持つ「目」と識別できる眼球は付いていない。それでも覚醒したという意味で、目覚めたという言い方をするべきだと思っている。
そこは食事をした部屋ではなかった。大きな窓から射しこむ光が照らす部屋は、店内を明るく見せている。
そう。店内だ。
ほのかに
(なるほど、魔術、か)
命令を図案化し、実行させる魔法陣。
ホーキンスが記憶する時代にもそれらは存在していたが、今の
たとえば、机の上に置かれている袋には、時間凍結の術がかけられている。遠征に出かける際、肉や野菜などを腐敗させないようにするために使われていた魔法だ。つまり、あれに入れておけば保存が効くということになる。
しかし、効果が切れかかっているようだ。棚に並べられている同じ形の袋には術が張り巡らされており、こちらは問題なく機能することがわかる。
修理屋と言った娘の言葉を、ホーキンスは理解した。破れてしまった網目を繋ぎ合わせる、そういった生業らしい。
(そういえば、あの下僕はどこへ行きおった)
ぐるりと周囲の気を探ると、近づく気配がある。ガチャリと開いた正面の扉から顔を出したのは、栗色の髪をした娘。なにやら荷物を抱えている。
「下僕めが」
「あ、起きたんだ。……いや、起きたって言っていいのかな」
「なにをくだらぬことを。それより、ここがおまえの店か、狭苦しいな」
「基本、持ちこまれたものを直すだけなので、広い店内は必要ないの。ほっといてよ」
「だが悪くはない。ここには魔素が満ちている。じつに居心地がよい。気に入ったぞ」
「そう? あのさ、ホウキ」
「ホーキンス・シュタオプザオガ。閣下と呼べ、下僕」
「買い物に行った先で見つけてきたんだけどね」
ホーキンスの言を聞き流し、
そこから出てきたのは、三脚スタンドだった。中央に丸く穴が開き、それを囲むように三本の木材で支えている。旗や竿を店先に飾るときに使う、ありふれた雑貨だ。
「壁に立てかけるにしたって、バランス崩して倒れちゃいそうだしさ。これなら、寝てるときも平気でしょ?」
添え木を組み合わせて、中央が水平になるように固定する。そうして壁を背に立っているホーキンスをひょいと取り上げると、三脚の中央に突き刺した。
「どんなかんじ? 柄の太さから考えても、ちょうどいいと思ったんだけど」
ホーキンスは呻いた。
この身体はひどくバランスが悪い。上下の意識は特になく、穂の部分を頭部と定めているわけでもない。バランスという意味であればむしろ、穂を下としたほうが安定する気もしている。
そもそも、器官としての目や口がないのだ。今のホーキンスは、どちらを上にしていようと、四方八方を知覚できる状態にある。
(――そうか、吾輩の肉体は滅んだということだな。今、この場にあるのは魂のみ)
ホーキンスは理解した。把握した。認識した。
己が存在を新たにしたホーキンスは、あらためてラズリが用意した三脚に意識を向ける。長くまっすぐに伸びた柄が収まった台座は、軸受けの金具位置を変更することにより、角度の調節ができるようになっている。今はちょうど、大きな椅子に腰かけるような角度となっており、これもまた心地よい位置であった。
うむ、良いではないか。
ホーキンスは鷹揚に答えた。
◇
ホウキがしゃべりはじめて半月ほどが経過したが、ラズリの生活が変化したかといえば、たいして変わったわけでもない。なにしろ、ホウキだ。生活を共にするといっても、掃除道具がひとつ増えただけのこと。
まあ、ホウキが食事をする時点でおかしなことではあるのだが。
常に上から目線のホーキンスだが、彼が魔法学に精通していることは間違いではなく、その知識はラズリの知るかぎり、学舎の師を上回る。
魔法の根源は太古から変わらないというが、推定五百年前のホーキンスが今の魔術を解することができるのだから、つまりそういうことなのだろう。
これが生き字引というやつかもしれない。
持ちこまれた道具にどんな魔術がかけられているのか。ラズリは、魔法陣を見ないとわからないけれど、ホーキンスには「見える」のだという。術式は網目のように表面に張り巡らされており、ほころびすら可視化されているため、どこを直せばいいのか一目瞭然。
作業机で暖房器具の故障を確認しているときに、「昇温機能が損傷している」と事もなげに告げてきたことで判明した。さらに、適切なアドバイスまでもしてくれた。言い方はともかくとして、便利である。
「それはどういったものだ」
「この鉄箱の中に熱球を作って、それによって周囲の空気をあたためるんです。暖炉のように火を使わないので、火事の心配がなくて安全なの」
「ならば、風の魔法を重ねて内部で対流させれば、熱上昇が早くなるだろう。なぜそうしない。今時の魔術士とやらは腑抜けだな」
「――その発想はありませんでした」
「愚かだ。じつに愚かだ。この熱源にしてもそうだ。
ホーキンスが指示するままに構文を書き換えたところ、成人男子の拳ほどの大きさだった熱球は、幼児の手のひらほどになった。熱すぎて
言われてみれば納得で、どうしていままで気づかなかったのかと頭をひねってしまうぐらい、ほんのすこしの発想ですべての機能は向上するのだと知ったのだ。自宅に設置されている魔具に対して、あれこれ術式を書き換えてみたところ、お湯の温度変更幅が向上したし、保冷庫もより冷えるようになった。
そんなふうだから、無機物の分際で妙に偉そうなホウキのことも、ラズリはいつのまにか受け入れてしまっていたのである。
ある日のこと。店のカウンターで依頼された魔具の不具合を調整していたとき、入口のガラス窓に人影が映った。
ゆっくりと押し開かれた扉から現れたのは、見目麗しい異国の青年。ラズリより、やや年上だろうか。褐色の肌に、彫りの深い顔立ち。やわらかく細められた瞳は、澄んだような紫色。髪の毛を覆い隠すように薄紅色の模様が入った布が巻かれているし、身体のラインを目立たせないたっぷりとしたシルエットの上衣と下衣は、この国ではあまり見ない装束で、そのエキゾチックな姿にラズリは目を瞬かせる。
咄嗟に言葉を出すことができずに固まっていると、男はニコリと優美に微笑んだ。
「失礼。こちらはグリシナ・ノーゼライト師の店で相違ないかな?」
「あ、はい」
「よかった。師にお会いしたいのだけれど、呼んでいただけるだろうか、可愛らしいお嬢さん」
ほっとしたように頬をゆるませた青年に、ラズリは唇を噛み、告げる。
「……グリシナは、亡くなりました。申し訳ありません」
「ああ、なんてことだろう!」
ラズリの言葉に、青年はやや大仰な仕草で天をあおぎ、頭を振った。
「では、もしやキミは……」
「わたしはグリシナの孫です。祖母の跡を継いで、この店をやっています。あの、どういったご用件で?」
「ああ、失敬。じつはだね――」
青年がこちらに向き直ったとき、その背後からなにかが飛び出して、声をあげた。
「ホーキンス殿おぉぉ。ようやく見つけましたぞおぉ。モルガノ・モルガン、ようやっと馳せ参じることができた」
ふさふさと揺れる白い布が鈍色に光る金属に絡み、細い白木の棒がまっすぐに伸びている。
「こらこらモルガ。お嬢さんがビックリするじゃないか。大きな声を出すものではないよ、品がない」
「ああ、これは失礼した。儂はモルガノ・モルガンである」
声が聞こえた。
美青年が持った『モップ』が大きな声で名乗り、ラズリはめまいを感じながら胸中で呟いた。
――あれ、なんか見たことあるな、この絵面。
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