第47話
部屋に戻った俺はふうと息を吐く。
気づけば時刻は二十三時。いつもならまだ活動時間であるが、今日は朝からいろいろあり過ぎて疲れているらしい。
睡魔が襲ってきている。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
詩乃は帰ってきて早々にトイレに向かっている。彼女が出てきたらトイレを済ませて寝てしまうか。
しかし。
本当に今日はいろいろあった。
めちゃくちゃに長い一日に感じた。
まさかアイドルとこんな時間を過ごすことになるとは。ビーチバレーをしたり王様ゲームをしたり、こうして同じ部屋で寝ることになるのだって想像していなかった。
これ、夢じゃないんだよな。
目が覚めたら全部が夢で、俺はひっそりとユーチューバーをしているだけの高校生のままでした、みたいなことになったりしないだろうか。
物語のオチとしては最悪だけど、夢のような時間があまりにも長く続いているからそう思ってしまう。
考えていると、瞼が重たくなってくる。うとうととしてしまい閉じそうな視界を無理やりにこじ開ける。
そのときだ。
パチリ、と電気が消えた。
ベッドの近くに電気を操作するところがあるが、入口のところにもスイッチがある。
恐らく詩乃が消したのだろう。でなければこれは怪奇現象ということになってしまう。
まあ、いずれにしてもなんで消したんだという話ではあるが。
「詩乃?」
名前を呼ぶが返事がない。
が、その代わりに入口の方から人の気配がする。その気配はそろりそろりと動いて俺に近づいていた。
え、詩乃だよな?
霊的なものではないよな?
瞬間。
ミシッと、俺の寝転がっていたベッドが重みで沈む。人の気配は足元まで来ていた。
ゆっくり。
ゆっくり。
そろり。
そろり。
と、一歩一歩こちらに近づいてきている。その度にベッドがグラグラと揺れる。
暗くなったばかりでまだ視界が安定していない。目の前には暗闇が広がっており、何が起こっているのか分からない。
が。
微かにだが、何かがいるのは分かった。真っ暗闇の中にうっすらと白いものが映るのだ。
白いもの?
え、待って待って。
本当に幽霊とかいう感じ?
思い出せ。
詩乃が着ていた服は白だったか?
……。
…………。
うん。
確か桃色とか薄い赤色とかそっち系で、とにかく白ではなかったな。
終わった。
これ、心霊現象や。
「――くん」
「くん?」
声がしたような気がした。
霊が何かを言ってきたのだろうか。
うつらうつらとしているせいで脳が上手く動いてくれない。それでも何とか理解しようと聞こえてくる声に意識を向ける。
「……春吉くん」
俺の名前を呼んでいたようだ。
しかし、だとするならばなおさら誰だ。詩乃は俺のことをハル様と呼ぶのでそんな呼び方はしない。
俺のことを春吉くんと呼ば人は少なからずいるけれど、誰もがこんなところに来るような人じゃない。
まして、恨まれるようなことをした覚えはない。
まさか意識を取り戻した彩花さんが王様ゲームでのことを思い出し、俺に恨みを持ったとかじゃないだろうな?
「こっち、見て」
なんて考えていると、その白い影が俺の頬に両手を添える。それと同時にお腹辺りにずしりと重みを感じた。
この重さは人のそれだ。
その感覚に俺は少しだけ安心する。重いということはつまり幽霊ではないということだから。
となると、次に気になるのはこれが誰かということだが。
その答えはすぐに分かることになる。
「……詩乃?」
暗さに段々と目が慣れてきて、俺の顔をしっかりとホールドしている人間の正体がうっすらと見えてきた。
暗闇で色までは識別できないが、長い髪とその幼い顔が詩乃だということを気づかせる。
「お前……なんで……」
俺は視線を恐る恐る下へと動かしていく。
首から肩、鎖骨を通って二つの膨らみを捉え、そのままおへそ、太ももとゆっくりと進めていく。
俺が見ていた白色、それは不健康なくらいに色白な彼女の素肌そのものだった。
つまり、彼女は今真っ裸である。
「なんで……服は?」
「……言わせないで」
言わせないで?
ええっと。
ていうか、いつもと雰囲気随分と違くないですか?
いつもの詩乃なら全裸になっても「どうですかハル様、わたしの素肌に視線が釘付けじゃないですか?」とか言いながら堂々としていそうなものだが。
今の彼女は俺の視線が体に向いていることに気づいては頬を赤らめ、無理やりに顔を向かせてくる。
まるで詩乃の体に、詩乃ではない誰かの魂が乗り移っているような、そんな違和感があった。
「恥ずかしいけど、これくらいしないと何も変わらないと思って」
真っ直ぐと俺の瞳を見つめてくる詩乃の目はゆらゆらと揺れているものの、決してブレないでいる。きれいな瞳には俺の目が映っていた。
「変わらないって……」
「わたしと、春吉くんの関係」
俺と詩乃の関係。
あの日から変わろうとして、けれども決定的な変化が起こることのないもの。
お互いがお互いにその気持ちを分からないでいたからこその不安定で曖昧なもの。
「やっぱりね、春吉くんと一緒にいると楽しくてどきどきして、他の女の人と笑ってたりしてるとこを見ると胸がきゅっとなるの」
「それ、って」
「うん。たぶん、そういうことだよね。もしそうじゃなかったとしても、そうだと思うことにした。だって、そっちのがきっと楽しいし幸せだから」
彼女の瞳は真っ直ぐで、言葉には迷いがなくて、その一言一言が俺の体内を駆け巡る。
俺の中にある無意識のうちに伏せていた気持ちを引き起こそうとしてくる。
分からないままでいようとした、けれども本当は自分でも気づいている俺の中の気持ち。
「俺、も……」
相手は大人気アイドルで、俺みたいなただの一般人がこうして二人で会えているだけでも奇跡なんだ。
その上、それ以上を願うのは贅沢だと思っていた。けど、詩乃がそれを願ってくれているのなら、俺はそれに応えてもいいのではないか?
もうなにも我慢することなんてないんじゃないか?
気づかないふりなんてやめればいい。
思ったことを口にすればいい。
願ったことを叶えればいい。
だって。
今、目の前にいる女の子は、そんな俺の気持ちを受け入れてくれようとしているのだから。
「詩乃」
俺は重たい体を起こそうと力を入れる。まるで鉛のような腕をなんとか上げて詩乃の腰に持っていく。
「ひゃう」
すると、その感覚に驚いてか、これまで聞いたことのないような可愛らしい声を漏らす。
それすらも愛おしく感じる。
「春吉、くん……」
詩乃は揺れる瞳を俺に向け、切なそうな声をこぼした。それがまるで俺を求めているように感じ、今度はゆっくりと体を起こす。
スラッとした細身の体。
肩に手を置き、それをそのまま腕に向けて滑らせていく。男とは違う、ふにふにとした腕に俺の中の気持ちは膨れ上がる。
指先まで詩乃の感触を堪能した俺の手は、そのまま彼女の太ももへと移動した。
赤ちゃんを扱うように優しく撫で回すと、詩乃は「んっ」と艶やかな声を出す。
けれど嫌がっている様子は感じないので、俺はその手を止めない。
「春吉くん……」
「なに?」
「なにか、その、当たって」
そんなの分かってた。
詩乃と向き合ったときから既にソイツはやる気満々だったから。
けど、いざそう言われるとちょっと恥ずかしい。
「ごめん。嫌だった?」
訊くが、詩乃はふるふると首を横に振るだけ。
このまま先に進んでいいのか。
一瞬だけその疑問が頭をよぎるが、こんなのもう勢いに任せるしかない。
意を決して、俺は彼女の胸に手を伸ばす。
大きくはない、けれどもしっかりと己の存在を主張する女の子の膨らみ。お椀型のきれいなかたちをしたそれが、俺の手によってぐにゅりと崩れていく。
「……」
詩乃が何かを言ったような気がした。
俺は彼女の顔を見る。
暗闇に慣れ、視界も段々と取り戻している。詩乃の顔はこれまで見たことないくらいに真っ赤だった。
「詩乃?」
「やっぱり」
詩乃の震える声が漏れる。
「ん?」
瞬間。
グラリと俺は体勢を崩す。
というか、崩される。
「心の準備が!」
どんっと押された俺はそのまま詩乃から離れてベッドに倒れてしまう。
そこに何かあったのか、衝撃が頭に走り、俺はあろうことかそのまま意識を失ってしまった。
それからどれくらい経ったのか分からないが、ゆさゆさと揺らされる感覚に段々と俺の意識は覚醒の準備を始める。
「――様」
声がする。
俺はゆっくりと目を開く。
「ハル様?」
ぼんやりとした視界が捉えたのは、間近にある詩乃の顔だった。
「詩乃?」
時間が経ち、意識がハッキリとしていく。
明るい部屋。
見慣れた部屋着姿の詩乃が俺に乗っかかっている。
先程までの妖艶な雰囲気は彼女にない。
呼び方もハル様に戻ってる。
「寝てました?」
「寝て、た?」
俺が体を起こすと詩乃は上から移動してくれる。時計を見ると少しだけ時間が経っている。
え、夢?
どこから?
全部?
「俺、寝てた?」
「……はい。夜はこれからなので起こそうと思いまして。一緒にゲームしたいですし」
ごにょごにょと小さな声で言う詩乃はどこか歯切れが悪いように見える。そこまでして一緒にゲームがしたいのか。
ていうか。
あれ全部夢なの?
嘘だろ。
「顔を洗ってしゃきっとしてください。あと三時間は寝させませんよ」
詩乃はベッドから降り、自分のカバンを漁り始めた。
俺は状況を理解しようとしながらも、まだ少しぼうっとしている頭を起こそうと言われたとおり顔を洗いに行く。
顔を洗い、洗面台の姿見をふと見たときに気づく。
俺のお腹の辺りに変な染みのようなものがあった。寝汗にしては変な場所だ。
「……夢、か」
いろいろあって脳が混乱してたのだろう。
しかし、もしあれが夢でなかったとしたらどうなっていたのだろう。
考え、そしてその先の光景を振り払うように頭を振った。
「……はあ」
そんなことよりも。
何より問題なのは、俺が俺自身の気持ちに気づいてしまったということだ。
まさか、あんな夢で気付かされるとは思いもしなかったが。
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