第32話


 俺がまだ小学生の時、広い海を見てシンプルに怖いと思った。海というよりは湖だったのかもしれないけれど、陸地の見えない無限に続く水に恐怖を覚えたのは確かだ。


 青々と広がる水面を見ていると、ふとそのときのことを思い出していた。

 水が怖い訳では無い。プールの授業は難なく受けていたし、泳げないということもない。


 ただ、一度岸を離れてしまったが最後、二度と戻ってこれないという未来を想像してしまっただけだ。


 あの日のあの感情は確かに俺を震わせたけれど、今こうして改めて目にすると意外とそうは思わない。


 そのときそのときの感情に足を止めることはあるけれど、過ぎてみれば、それは存外何でもなかったりするものなのだろうか。


「どうした、春吉」


 ぼうっと海を眺めていると、後ろから圭介さんが声をかけてきた。振り返ると、しっかりと鍛えられたシックスパックが目に入る。

 この人、イケメンで陽キャで優しくて高身長な上に筋肉まであんのかよ。弱点どこ?


「いや、広いなあと」


「だな。普通なら人で溢れ返ってるであろう場所にオレたち以外人はいない。こりゃ普通の海には行けなくなるぜ」


 圭介さんは赤色を基調とした水着に白のラッシュガードを着ている。自慢の筋肉を披露したいのか前は開いているけれど。


 俺も以前買っておいた水着を穿いている。紺色のパーカーのようなラッシュガードも購入済だ。

 詩乃と買い物に行くまでその存在は知らなかったのだが。


「春吉は海はあんまり来ないか?」


「そうですね。見ての通り、インドア派なんで」


 あはは、と俺は自嘲気味に笑う。


「楽しいもんだぞ。今日はオレが海の楽しさというものを目一杯教えてやる」


 言いながら、圭介さんは俺の隣に立つ。手を腰に持っていき仁王立ちをして水平線を見つめる。

 何となく俺もそれに習う。


 そうやって二人で待つこと暫し。

 なんで海見ながらぼーっとしているのかというと、決して男同士の友情を育んでいるわけではなく、女性陣の到着を待っているのだ。


「海と言えば水着。テレビや雑誌でしか見ることのないアイドルの水着姿を実際に目の当たりにできるってのは冷静に考えるとやばいな」


「……」


「どした?」


 俺は圭介さんの発言が意外でついぼーっと彼の方を見てしまっていた。それに気づいた圭介さんが眉をしかめる。


「あ、いや、なんというか。圭介さんもそういう俗っぽいこと考えるんだなと思って。それがなんか意外で」


「オレだって普通の男だぜ。そりゃエロいことに興味津々よ」


 こんな話をして、少しだけ彼に親近感を抱いてしまうのだから男というのは単純だ。


 陰キャでも陽キャでも、パリピでも引きこもりでも、スポーツマンでもオタクでも、男は総じてエロが好き。

 なるほど。

 勉強になるな。となると男との会話に困ったときはとりあえず「お前の性癖ってどんなの?」とか訊けばいいんだな。いいわけあるか。


 俺がそんなどうでもいいことを考えてしまっていたときだった。遠くの方から「おーい」と微かに声が聞こえてきた。


 段々と大きくなるその声に、俺と圭介さんは振り返る。

 誰だとは思っていない。ここは北条さんのプライベートビーチである以上、知り合い以外はいないからだ。


 俺たち以外の、つまり女性陣の到着である。それはある意味、大人気アイドルたちの水着姿の披露の時間でもあった。


 まず最初に登場したのは一目散に圭介さんに駆け寄る牧園由希奈ちゃん。この人、少しだけ詩乃に似ているな。


「どうどう?」


 圭介さんの前までやってきた由希奈ちゃんはくるりと回りながら妖艶な表情を浮かべる。

 どれだけのファンが、彼女のこんな姿を目の当たりにしたいと願うのだろう。お金払わくてもいいのかな、と不安になる。


 アイドル業における由希奈ちゃんのイメージカラーは確か桃色だったはずだが、彼女がつけている水着は黄色。

 胸全体を覆うはずのブラが少し小さいせいで肌色の膨らみが僅かにはみ出ている。端的に言うとエロい。

 グラビアなんかで着ることはあるのだろうが、恥ずかしげもなく披露している。


「ああ、よく似合ってるよ。可愛い」


「思わず襲いかかりたくなる?」


「なるなる」


「きゃー! 圭介のえっち!」


 どういうやり取りだよ、と少し呆れながら見ていると由希奈ちゃんが俺の視線に気づく。

 やべえ、エロい目で見ているのがバレた。こりゃ罵詈雑言が飛んでくるぞ。


 という俺の予想とは裏腹に由希奈ちゃんの表情は穏やかだった。


「なに、その顔」


 不思議そうに訊かれる。

 どんな顔してたんだろ、俺。


「いやなんというか、じっと見てたの悪く思われたかなと思って」


「別に思ってないよ。見てもらうために着てるんだし。春吉が見惚れたってことはそれだけ魅力的だったってことでしょ?」


「まあ」


 この人、俺のこと普通に春吉って理解してるんだ。適当にしか呼んでこないから興味ないんだと思ってた。


「もっと見てもいいけど、そんなことしてたら他の子たちに怒られるんじゃない?」


「え?」


「特にほら、今まさにこちらにやってきている一人はあんたのこと怖ぁい目で睨んでるわよ?」


 くすくす、とおかしそうに笑いながら由希奈ちゃんが少し遠くの方を見るので俺もそれに習う。


 そして、なるほどと得心する。


「……」


 これは確かに、これ以上は由希奈ちゃんを見れそうにない。

 じりじりと詰め寄るように俺のそばまでやってきた詩乃が無言の圧力をひたすらにかけてくる。


 なにか言ってくれないとこっちも反応できないのだが、ただただじっと恨めしそうな半眼を向けてくるだけだ。


「えっと」


「……」


 何を言おうか。

 ごめんなさい、か?

 別に悪いことはしていないと思うのでそれはそれでおかしいか。こう言ったとき特有の「なにがごめんなさいなの?」とか言われてら言葉に詰まるし。


 じゃあなんだろ。


 プレッシャーに耐えながら考えること暫し。他の子たちがこちらに向かってきていた。

 到着する前にこの状況を何とかしたい。

 横を見るといつの間にか圭介さんと由希奈ちゃんはどこかへ行ってしまっているし。


 つまり今だけは俺と詩乃の二人きり。ならば恥ずかしいけど、正直に言うか。


「……水着、よく似合ってるな」


 瞬間。

 まるで氷が溶けていくように、むすっとしていた詩乃の表情がぐにゃりと和らいだのだった。

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