第18話


「誰だっけ、それ」


「えー、いつも話してるじゃん」


 そうだったかな、と由希奈はクエスチョンマークを浮かべる。

 少し思い返すと、何となくだが思い出した。詩乃がいつも楽しげに話しているゲーム配信者の名前だ。


 基本的にその話題になると詩乃は暴走するのでそこからは適当に話を聞き流していた。

 なので記憶にそこまで残ってないのだ。


「ふぅん。そのハルっていうのは男の子なの?」


「ハル様ね。ハル様は男の子だよ。高校生のね」


「え、てことは彼氏? 聞いてないんだけど、いつの間に付き合ったの?」


「彼氏とかじゃないよ。ハル様はわたしの崇拝している偉大なゲーマーなの」


「あ、なんだ、そうなの。会ったりはしてないってこと?」


「ううん。この前デートしたよ。それにお家にも招待してもらったし」


 そのとき。

 彩花がガラガラと持っていたハンガーを落とした。


「ちょっと、その話聞いてませんけど?」


 デートの件は聞いた。そこで一抹の不安を覚えたわけだし。

 だがそこからさらなる展開があったことは知らされていない。まあ、逐一知らせるルールなんてないのだが。


「え、え、おうちデートってこと?」


 先程とは打って変わって、由希奈の表情には分かりやすく興味が浮き出ていた。


「そうだよ。残念ながらハル様の部屋にはえっちな本はなかったんだけど」


「……男の部屋でそんなもの探さないの。一応聞いておくけど、間違いとかは起きなかったわよね?」


 彩花はぼそりとツッコミを入れてから、恐る恐るといった調子で詩乃に尋ねる。


「間違いって?」


 とぼけているのか、素なのか、詩乃は首を傾げた。それに対して、彩花の代わりに答えたのは由希奈だ。


「セックスよ」


「ああ、なるほど。なんでそれが間違いって表現になるの?」


「そういうものなの。で、どうなの?」


 話が逸れそうだったので、適当に流してから話を戻す。

 由希奈の悪魔的に計算された行動とは異なり、詩乃の行動は基本的に天然と思いつきだ。


 その上、ハルには全面的な信頼と好感度を持っているので、万が一襲われてもそれを受け入れてしまう危うさがある。


 そして。

 自宅にアイドルを上げた男が、触れることすらせずに家に返すとは到底思えない。


「してないよ。だって、わたしとハル様は付き合ってないんだよ?」


「別に付き合ってなくてもセックスはするでしょ」


「由希奈はちょっと黙ってて」


 彼女の貞操観念はメンバーの中でも一番緩い。その意見に触発でもされれば面倒事になるのは間違いない。

 注意された由希奈は「はーい」と適当な返事をして着替えを始めた。


「まあ、わたしとしてはハル様にならこの処女、いつでも捧げる覚悟はできてるんだけどね」


 詩乃はこんなことを言う。

 けれども、彼女の中で『そういう行為は恋人になってから』という常識があるのでそこに至っていないのだ。

 その常識を由希奈に狂わされればいろいろと終わりだ。


「なんで付き合わないの?」


 黙っていた由希奈が尤もな質問をする。


 処女を捧げる覚悟があるということは、つまりそういう相手として受け入れていることになる。

 それは無意識にだと考えているとも言えるだろう。


 そうなると、恋人同士になればいい。そうすればこの問題は解決する。


 その疑問には彩花も至った。

 なので同じような疑問をぶつけたことがある。


「え、だってわたしみたいな人がハル様とお付き合いできるわけがないでしょ?」


 詩乃はどうしてか自分の評価が著しく低い。知名度が上がり、誰もが知る有名人になった今でも、彼女の根底にはどうしてかそれがある。

 それに比べ、詩乃の中のハルの存在は随分と上に設定されている。


『ただの一般人が大人気アイドルと付き合えるはずがない』というファンならば誰もが抱く思考を、どうしてか詩乃の方が持っているのだ。


 どうしてか、彼女の中にあるネガティブな思考が、詩乃とハルの関係を維持していることになる。


「普通にイケるでしょ。詩乃は可愛いし面白いし、まあたまに暴走すると面倒だけどそれを差し引いても普通にイケる」


「そ、そうかな?」


「イケるイケる。さっと抱きついて、チュッとキスしちゃえば相手に火がつくよ。そうすれば後は勢いでイクとこまでイケる」


「わ、わたしが、ハル様と……」


 由希奈に言われて、そういうシーンを想像したのか詩乃はぐへへとだらしない笑顔を見せる。

 よだれが垂れてきたところで我に返り、「おっとっと」と言いながら腕でそれを拭った。


「で、でも詩乃は別にハル様のこと好きじゃないんでしょ? その、恋愛的な意味で」


 以前、そんなことを言っていた。

 自分の中にあるハルに対しての感情がどういうものなのかを、彼女自身が理解していない。


 それが恋心だと気づかれれば、きっと詩乃の暴走はもう止まらない。


「ううん、どうなんだろ」


「別に好きだから付き合うって決まりはないでしょ。付き合ってから好きになることだってあるし」


「そういうもの?」


「そだよ。由希奈もそういうことあったもん」


「由希奈がおかしいだけよ。普通はそんなことないわ」


 そういう意味では、由希奈の思考は非常に厄介だ。詩乃の持つ爆弾をいつ爆発させてもおかしくない。


「ええー、ひどい言われようー。彩花さんは彼氏いないんですか?」


「当然よ。アイドルなんだから、いる方がおかしいの」


「彩花さんって処女?」


「ノーコメント」


 ちぇー、と由希奈はつまらなさそうに唇を尖らせる。


「とにかく、本来ならば恋愛はご法度ってことを重々理解しておきなさい。ルールはなくとも、暗黙の了解というものが世の中にはあるんだから」


「はーい」


 詩乃は気の抜けた返事をする。

 頭では分かっているはずだが、そこに彼女の感情がぶつかればどうなるか分からない。


 彼女でなくとも、好きという感情は時に様々な障害をぶっ壊してしまう。周りがどれだけ縛ろうとも、阻もうとも、お構いなしに突っ走ってしまう。


 それが恋というものだ。


「由希奈も、詩乃に変なこと吹き込まないようにね」


「はーい」


 詩乃と同じような返事をしてきた由希奈だが、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。

 それは何かしらの企みから来るものなのか、彼氏のことでも考えているのかは分からない。


 彩花の悩みは尽きない。

 こめかみを抑えながら、彼女は大きな溜息をつくのだった。

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