第2話
その週の土曜日。
どこで会うかという話になったときに『ささ』さんが俺の家の方まで来てくれると言う。
一度は遠慮したがそれでも言ってくるのでお言葉に甘えることにした。
そういうことなら近くの喫茶店にでも入るかという提案をしたのだが、どういうわけかひと目につく場所は避けたいという理由によりカラオケになった。
世の中でそんな理由を使う機会なんて不倫のときかパパ活のときくらいしか思いつかない。
どっちもグレーな理由なんだよなあ。
もしかしてめちゃくちゃ金持ちのマダムとかなのかな。パパ活ならぬママ活的な意味なのかな。
あるいは旦那との生活がマンネリ化したことによる刺激として俺を利用したとか。
いやいや。
相手の目的はユーチューブのコラボ配信だ。仮にマダムだとしてもそこは揺るぎない。
大丈夫だ。
「……」
指定されたカラオケに到着する。
俺の家からは三駅ほど離れていたが、この距離で電車を使うのは気が引けたので自転車に乗ってきた。
それでも十五分程度だ。
桜こそ散ってしまったが、夏というにはまだ早く、吹く風は心地よい。暑さもないので程よい運動だと思えた。
どうやら部屋を予約しているらしく、数分前に部屋番号が送られてきていた。
エレベーターで五階に上がる。受付は必要ないらしいので、そこから階段で六階に向かう。
その階の六〇七号室が指定された部屋だ。近づくにつれて、さっきまではなかった緊張が込み上げてきた。
冷静に考えると大胆なことをしている。
知らない相手と、数回メッセージを交わしただけで直接会おうとしているのだ。
顔を知っているクラスメイトとさえロクに会話していない俺が、顔も知らない素性も知らないどこかの誰かと会話ができるだろうか。
しかも相手はお金持ちのマダムである可能性が濃厚。他にもマイナスな想像を膨らませるならユーチューブ配信のコラボを出しにして俺を狙うヤクザとか、若い男を無差別に狙うホモとか。
ああダメだ。
止めよう。
帰りたくなる。
「……よし」
部屋の前に到着した俺は一度深呼吸をして心を落ち着かせる。
頼む。
同年代の男であってくれ。
あと叶うなら俺と同じ陰キャタイプの人であれば文句はない。
「こん、にちはー」
ゆっくりと扉を開け、恐る恐る中に入る。部屋の中は明るい。明らかに人がいる。
俺は震える声で挨拶をする。
父が言っていた。社会に出て最も大切なことは『挨拶』だと。当たり前のことを当たり前にできない人間が多いんだとか。
「ハル様?」
声がした。
俺は驚きでつい体の動きを止めてしまった。
え、あれ。
聞き間違いでなければ可愛らしい女の子の声がしたんだけど。
ていうか、今なんて?
「……様?」
俺は意を決して顔を上げる。
ついに相手の顔を拝んだところで衝撃を受けた。
それは想像通りにマダムだったからでも、強面のヤクザだったからでも、まして舐め回すようにこちらを見るホモ野郎でもなかったからではない。
目の前にいたその女の子に見覚えがあったからだ。
「……笹原、詩乃、さん?」
アイドルグループ『CutieKiss』に所属する可愛い担当の笹原詩乃。今や巷で知らない人はいないくらいに世間に名を馳せた国民的アイドルだ。
テレビで見る彼女は長い黒髪をハーフツインテールで纏めているが今日はプライベートだからかストレートで下ろしている。
大きな瞳、長いまつ毛、小さな鼻にさくら色の唇。スラッとしたスレンダーなボディライン、大きくはないがしっかりと膨らみのある胸。
可愛い系の服を好んで着るイメージの彼女だが、今日はパーカーにハーフパンツと少々スポーティだ。
つまりテレビで見る彼女のイメージとは異なるわけだが、それでもひと目見て彼女があの『笹原詩乃』だと気づけたのは、目の前の女の子が放つ圧倒的オーラがそれを思わせたのだ。
「やだ、詩乃さんだなんて呼ばないでください」
俺は唖然として扉の前で立ち止まっていた。彼女にそんなことを言われてハッと我に返る。
「あ、ごめんなさい。そうですよね、俺みたいな奴にそんな呼ばれ方されたら嫌ですよね」
じゃあなんて呼べばいいんだよ。
「詩乃と呼んでくださいっ!」
目をぎらぎらと輝かせながら笹原詩乃さんはそんなことを言った。それはさんを付けるなということですか?
「いや、それはちょっと……」
いきなり初対面の人を呼び捨てにできるほどのコミュ力は残念ながら持ち合わせていない。
「どうしてですか?」
「女の子を呼び捨てにしたことがないから」
しかも相手はあの笹原詩乃だ。
彼女を呼び捨てにしていることがバレればクラスで何と言われることか。
きっと、『お前如きが詩乃ちゃんを呼び捨てにすんな。きっしょ』だろう。
「なら、その初めてをわたしにください」
「……考えておきます」
目の前にいるの、テレビとかで見るあのアイドルだよな。
なんか持っていたイメージが崩れ始めているんだが。
「そんなことより、いつまでそんなところに立ってるんですか! ささ、どうぞこちらへ!」
笹原さんは自分の横をパンパンと叩いて有りもしないホコリを落とす。そして俺を迎えてくれる。
が、アイドルの横になんか座れないので俺は少し距離を置いて座る。
「ど、どうして……?」
ショックを受けた顔をこちらに向ける笹原さん。
「いや、なんか隣はちょっと」
緊張で吐いてしまうかもしれない。
普通の女の子が隣に座るだけでも多分相当しんどいだろう。それなのに相手が彼女となれば俺の心臓は間違いなく保たない。
「わたしの隣は嫌ですかそうですか……」
分かりやすく落ち込む。
彼女のテンションがよく分からないが、いつまでもこの変な空気の中にいるのはごめんである。
話を整理したい。
「あの、ところでなんですけど、いくつか質問してもいいですか?」
「もちろんです。スリーサイズでも性感帯でも、なんなら性癖でも! なんでも訊いてください!」
「そんなもん訊けるか!」
しまった。
あまりの動揺につい敬語が抜けてしまった。
「わたしはハル様にならすべてを曝け出せます」
曝け出しすぎなような気もするが。
「……そんなことより、あなたがメールをくれた『ささ』さんで間違いないんですよね?」
「? ……はい」
なにを今更という顔をされる。
そりゃそっちからしたらそうだろうけど、こっちからすれば信じられないことだらけなんだよ。
「あなたはCutieKissの笹原詩乃さんで間違いない?」
「知ってて貰えて光栄です!」
きらきらした顔はまるで褒められた子供のように無垢で無邪気だ。
やはり目の前にいるのはCutieKissの笹原詩乃で、その国民的アイドルがどうしてか俺にコラボ依頼をしてきた。
というところまではマジらしい。
はえー。
世の中何が起こるか分からないな。
でも分からないことはまだまだあるんだよなあ。
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