第13話 10年越しの【消失】
ああ人を消した。地面に着いた手に零れてくる生温かい赤色が酷く気持ち悪い。
あの時母の血に触れなくてよかった。抱きしめた感触と血の温かさが両方手に残っていれば刻印を使わずとも右手を切り落としていた。
たった1人の血が手にかかっただけでこの生理的な嫌悪感。ヘルティは8年もの間に魔物と人それぞれどれだけの返り血を浴びたのだろう。奪いたくも無い命を何度奪ったのだろう。
「あの優しいヘルティがなんでそんなことさせられなきゃならない」
森の中で誰に届く訳でもない悪態をつく。聞いているのは草木と動物、魔物。イレイズの問いにはどこからも返事は来ない。
「殺したくないのをすぐに分かってくれた。人のことを思えるヘルティがどうして……」
8年間勇者として悪を魔物を敵を、時には仲間の命を奪ったかもしれない。お金のためと刻印を使い、村に仕送りを続けるために殺し続けたのだろう。そんな時に【消失】刻印の話が耳に入れば消えたくもなるだろう。
死ねないヘルティを殺せるのは僕だけなのだから。
でも……。
「でも、ヘルティは消えちゃいけない」
間違っているのは街だ、王だ、この国そのものだ。ヘルティの大きな犠牲の上に成り立っている国の平和など消えてしまえばいい。
自分は消えないからと考えるまでもなく、右手を思いっきり握りしめる。
「君を消させやしない」
右手を前に構え空気を消しながら走り出す。森の自殺者たちが捨てた服がバタバタと暴れながらイレイズに追従する。
空気を消しながら、限りなく空気抵抗を減らして駆けるイレイズは、ありえない速度でありながら避ける空気がないせいで森の中は嘘のように静かな疾走だった。
「久しぶりにこんな走るな」
空気の無い目の前に言葉は響かない。普段より酸素が取り込めず溺れるようなはずなのに脚は止まらない。
人を殺しておいて誰かを救いたいだなんておこがましい感情なのかもしれない。しかし何度も何度も死を繰り返す彼女をもう死なせたくない。
確かな決意を胸に走り出したのに、足は軽いのに体が後ろに引かれる。
「……くそっ」
血に濡れた手を母が引っ張っている気がした。私を消したことを忘れたのとでも言いたげに刻印を持つ血濡れの右手が重たい。
ただの幻覚なことは分かっている。
ただの妄想なことも分かっている。
ただの逃避であることも分かっている。
母を殺して憲兵に襲われ何も分からずままにわずか7つながらそれを罪だと認識した。もちろん人を消したのは罪だ。母親を消したことを許してくれる人は誰もいない。
「お母さんだって許せないと思うけど……」
それでも、僕のお母さんなら。
「誰かを助けるために力を使わない方がきっと怒るよね」
誰よりも優しいイレイズの母親がヘルティが置かれている環境を見て見ぬふりするはずがない。刻印の力がなくても1人で軍に乗り込むだろう。
お人好しで真っ直ぐなお母さんが誰かを助けようとする僕の手を引っ張るはずがない。
それすらも妄想かもしれない。都合のいい解釈かもしれない。それでも誰かのためにありたいと、他人の幸せを心から喜べるお母さんを信じたい。
「……ごめん、でも行かないと。消えろぉ!」
右手の刻印に力を込める。濡れた血を消し去り右手を前に振り抜く。手を絡め取っていた母の幻覚は僕の妄想にもかかわらず少しだけ微笑んだ気がする。
「今度会った時には……ちゃんと謝らせて。もう逃げないから」
無音の中で言葉を紡ぎ、一度空気を消さずに吸い込む。急に空気の壁が重く感じるがイレイズはしっかりと地面を蹴って目の前の壁を消し去った。
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