第51話「茜の告白」

「私の方こそよろしくお願いします、えっと――」


 なんかしばらくの間付き合うことになっちゃったけど、この人の名前って何だっけ?

 昨日今日まあまあ話したはずなのに、名前について触れた記憶が全くない。


「――ごめんなさい名前教えてください」

桧山ひやま達也たつやって言います。俺も名前聞いていいですか?」

千島ちしまあかねです」

「千島さんですね、わかりました」


 なんかすごい他人行儀だな。

 まあ知り会って間もないっていうのもありそうだけど。

 ただ付き合ってるのに名前呼びは不自然すぎでしょ……。


「せめて名前で呼びませんか? あと敬語じゃなくていいです。同学年だろうし」

「じゃあ茜で、これでいい?」


 どうしてだろうか。

 振りをするだけなのに不覚にも名前を呼ばれてドキッとしてしまった気がする。

 いや今まで異性に名前呼ばれてドキッとしたことなんかなかったし、多分たまたま動悸どうきが起きたとかでしょ。

 もう一度呼んでほしいと思っているのも、多分私の気のせいだ。

 数週間後には別れることになってるんだし、変なこと考えちゃいけない。

 彼には今度私なんかより見た目も性格もいい彼女ができるだろうし、割り切らないと。

 私がちゃんとした彼女になることはあり得ない。

 これは間違った情報を正すための偽りの関係。

 まるで自分に言い聞かせるように、何度も心の中で復唱した。

 私に彼は釣り合わないと。


「いいよ、ありがとう。私も達也って呼ぶね」


 万が一にも心を読まれないように、一枚鎧を着せた上で、精いっぱいの作り笑顔でそう言った。


「なんか突然そう呼ばれるのは変な気分になるな」

「そのうち慣れるし、全部終わったら桧山くんって呼ぶから」

「別に達也のままでもいいんだけど」

「それだと別れた感出ないじゃん……」


 それに「呼び方を変えないといつまでも付き合っていたことを忘れられなそうで」とはどうしても言えなかった。


「なら別れたらね」


 冷たく突き刺すようにそう言われるとなぜかズキンっと心が痛くなった。

 どんな関係になっても名前で呼んでほしい。

 自分の発言のせいでそう言えなくなったのがなんとも憎らしかった。

 ああ、好きになっちゃったのか……。

 まだ名前しか知らないのに。


「ねえ達也、手握っていい?」

「いいけど、今ここで?」

「どうせ付き合ってるって言うなら手繋がなきゃだし、練習したほうがいいでしょ?」


 嘘ついてごめんね。

 ほんとはただ手が繋ぎたいだけだし、あわよくばもっと付き合ってるの広まれって思ってる。

 そうそっと心の中で謝罪しながら静かに達也の返事を待つ。


「わかったよ」


 そう言うと達也は、高いフルーツでも扱うかのようにそっと手を包んできた。


 それから二週間、私たちはまるで本当の恋人のように振舞った。

 そして私だけはなるべく別れにくい状況になるように恋人を演じた。


 新しくできた達也の友達に紹介してもらったり、わざと人のいるところで手をつないで見せたり、講義が被ったときはずっと一緒に居た。

 もちろん学校外でも、友達とダブルデートに誘ったり、手料理を振舞ったりもしてみた。

 もちろんすべて付け焼刃なのはわかってる。

 それに、なにかしたいと言ったときに文句ひとつ言わず演じてくれる彼に甘えていることもわかってる。

 けどできることをしておかないと。

 ああここまでしてもやっぱり駄目だったんだという理由がないと、笑顔で別れられる自信がなかった。


 ただ現実は非常に残酷で、永遠に来ないでほしいと願ったその日がLINEと共にやってきた。


『話したいことがある。茜の部屋行っていい?』


 その文には直接終わりにしたいとは書いてなかった。

 ただ文章の雰囲気から終わりが足音を立てて近づいて来ることくらい容易にわかった。


「いいよ、待ってる」と返事をしてから数分の内に彼はやってきた。

 その顔は今まで見たことがないくらい暗く、とても彼女に家に来るような表情ではない。


「話って、付き合ってるって周りに言ってることについてだよね?」

「そうだね」


 もしかしたらなにか別の要件かもしれないと期待したが、やはり予想が裏切られることはなかった。

 皆まで話していないのに曇った彼の顔が雄弁と物語っていた。


「ごめん、そのことで私も達也に言わなきゃいけないことがあるんだけど先に話してもいい?」

「わかった」


 しっかりと目を見ると、彼は短くそう言った。


「ずっと嘘ついてて、ごめんなさい。達也のことが大好きで……、恋人の振りに……必要ないことまでやってほしいって言っていました」


 どうして涙が止まらないんだろう。

 友達としてやっていけるように、笑ってさよならしたかったのに。


「最低なのは……わかってます。ずっと達也のこと振り回してごめんなさい……」


 嗚咽おえつ交じりになって、何度も言い直したのに、最後まで黙って聞いてくれていた。


「ねえ茜」

「なんですか?」


 どんな罵詈雑言が飛んでくるのだろう。

 ここしばらく付き合って、彼がそんなことを他人に言うタイプじゃないのはわかっている。

 それでもそんな彼にひどいことを言わせるくらい最低なことした自覚は十分にあった。


「別れようか」


 いつも通りの落ち着いた声で、彼は一言そう言った。


「……わかった」


 今更拒否権なんて私にないし、黙って受け入れる以外の選択肢は存在しない。

 それだけ言って、次に何を言えばいいのかわからず黙っていると、彼は言った。


「付き合ってる間茜の希望に応えてたわけだし、一つだけ俺の希望も言っていいかな?」

「なんですか?」


 なにを頼まれるんだろう。

 こういうとき彼がどんなことを望むか皆目見当がつかなったが、なにを言われてもそれに応える覚悟だけはあった。

 もしこれで最低なこと要求されたら、嫌いになれるからちょうどいいかな。

 ああもしかしたら真正面から顔を眺められるのもこれが最後かもしれない。

 などと考えていると、彼はゆっくりと口を開いた。


「俺と付き合ってほしい。周りを騙すためじゃなく、ちゃんとした恋人として」

「本当に私でいいの? わがままだし、私よりかわいい人はいっぱいいるし、達也ならもっといい人と付き合えるよ」

「茜がいいんだ。大好きだよ」


 そう言って力強く抱きしめてきた腕の中は、今までの演技とは違い、本当に暖かく安心できるものだった。

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