第30話 血と酒場
今のはなんだ!?
拳を硬め、自身に向かって来る虎千代に、彪鐵は一瞬だけ仰け反った。
迫る拳は遅く弱い。
一瞬気を取られたとはいえ、あらゆる武芸・武術を極め、長年、経津主のナンバー2に君臨する彪鐵ににとっては有効打とはなり得ない。
最小限の動きで拳を躱し、それと同時に掌底で虎千代の鳩尾を突く。
容易く吹っ飛ぶ虎千代を冷めた眼で見送り、静かに瞼を閉じる。
彪鐵は、立ち上がった瞬間の虎千代の瞳を思い出していた。
「あれは寅華の目だ…」
この世で最も気に入らない男と最愛の娘の間に生まれた、認められない存在。
それが彪鐵の虎千代に対する評価だ。
史上最強にして最高な愛娘、寅華を誑かした軟弱な優男との間に生まれ、経津主の至高たる寅華の血を授かりながら、気に入らない男の血を強く受け継ぐ軟弱なる存在。
虎千代は彪鐵にとって、決して許してはならない存在であった。
しかし、あの時一瞬だけだが見せた目は、間違いなく寅華の目、その血を継ぐ者であると、彼女の父である彪鐵には認めたくなくとも分かってしまった。
ここで消すか…
彪鐵の本心としては、寅華の子は、愛娘のミニマムサイズでの生き写したる愛孫、虎春一人いれば良いです寧ろそれ以外要らないと思っている。
しかし、彼の価値観の中心であり、その物差しとなるのは、現経津主の当主であり、愛娘である寅華である。
彪鐵が何故、姿を見ただけで殺しの衝動に駆られる潤三や虎千代を生かし続けたのか、それは一心に『寅華に嫌われたくない』からであった。
寅華が結婚相手として
認めない。
それは一族の総意であったが、一族という縛りを無くしても、認められなかった。
当時の寅華はあと数日で十六歳となる子供であり、一回り年上の軟弱な富豪の息子。
強き血を求める経津主において、決して認めてはならない婚姻だったが、寅華はそれを力で解決した。
不満はあるも、強制的に納得させられた一族であったが、彪鐵はそれでも認めなかった。
寅華の第一子、虎千代が生まれた時、一族は再び反抗した。
あまりにも軟弱で頼りないその子に、皆が絶望と怒り、憎悪を抱いた。
寅華が傑出した存在であることは皆が認めており、寅華が当主であることに誰も異を唱えることはない。
しかし、そんな当主の子がそれで良いのか、と反発が起こったが、それも力で納得させ、その後、寅華の血を色濃く受け継ぐ虎春が生まれたことで一族は落ち着いた。
そんな現状とはいえ、今だ認めていない者も存在する。
その筆頭が彪鐵であり、巳香や玄猪もそれに同調している。
最も、その二人は、自分こそ寅華の相手に相応しい、と叶わぬ愛を抱いた者たちだが…
彪鐵としては、虎春は別として、潤三と虎千代は父親として認められなかった。
そんな嫌悪の矛先たる虎千代が、一瞬とはいえ、愛しい娘の目を自身に向けたことは、彪鐵にとって認めたくないが心動かすことであった。
瓦礫と化した教室の壁から這い出てくる虎千代を見下ろし、彪鐵は冷たい目で言う。
「ここから這い上がってみせろ…そうすれば、貴様を寅華の子と…経津主の者と認めてやる…」
言葉と同時に、虎千代の脳天に彪鐵の強烈な踵落としが直撃した。
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祖父の言葉と、想像していた数十倍の威力の踵落としが直撃した瞬間、虎千代は二つのことを思った。
一つは、祖父の攻撃の威力。
幼少期から今まで、何度も攻撃を食らってきたが、それが手加減されたものだということ。
そしてもう一つ、祖父の言葉。
「母さんの子であることも、経津主だということも、どっちも嫌なんだけどなぁ…」
医務室のベットで目覚めた虎千代は、天井を見つめながら、右手に握らされた端末の感触を認識し、溢れる涙を左手で力強く拭い、震える声でそう呟いた。
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「おや、久しぶり、そして、一人とは珍しい…いや、初めてだね旦那!!」
半袖Tシャツの袖を捲りタンクトップの様にした女性がそう威勢良く出迎える。
「ああ…寅華さんはまだ来てないんですね…」
少しくたびれた様子で呟く様に言う男…潤三は、女の誘導でカウンターの端に座る。
「旦那ぁ、その名前は禁句だぜ…いくらアンタの嫁であってもさ。」
女が複雑な表情でボソボソと潤三に耳打ちする。
女の言葉通り、聞き耳を立てていた酒場の客たちが好奇心と恐怖を抑えきれない表情になっている。
「この酒場に…私にとっちゃぁあの人は女神だけどさ、あの人はここでは…いや、世界の何処に行ったって好奇と恐怖の的だよ。」
屈託のない笑みを浮かべてそう言う女を見て、自分しかあの人の本当の姿を知らないのだと思い、
「あぁ…そうですね…皆、そう思うんでしょうね…」
潤三は悲しさと少しの優越感を持った笑みを零しながら呟いた。
潤三の訪れた酒場、『居酒屋巡』は平民区画と貧民区画の丁度間、部類的には貧民区画に位置する場所に店を構えている。
四人掛けのテーブル席が五つと十人掛けのカウンター席のある居酒屋だ。
店員は二人。
威勢の良い二十代後半の女性と、無愛想で気難しそうな強面の中年男性だけだ。
初来店の客が全員強面の中年男性を店主と思うが、店主は若い女性の方と知り驚くのがお決まりの居酒屋である。
厨房と酒の仕入れ担当の店主と、配膳と用心棒である中年男性の二人で店を回している。
店の売りは『旨い酒』であり、その売り通り、貧民区間や平民区間では味わえない上質な酒を仕入れている。(通常、貧民区間では劣悪なアルコール飲料しか存在せず、平民区画でも最低品質ぎりぎりの物しか飲めない。)
そんな人気必須の様な居酒屋なのだが、皆一杯呑んですぐに帰るのが定番となっている。
原因の一つは他の酒場に比べて値段が高いことだが、それ以上の原因がある。
肴の全てがものすごく不味いのだ。
厨房担当の女店主、
故に、この『居酒屋巡』で酒の肴を注文する者は例外を除き、初見の客以外存在しない。
それなのに、女店主お手製のお通しが絶対に出てくる。それに箸をつけなければ、強面の給仕の男が殴りに来る。この男がまた、べらぼうに強いのだ。
そういった理由で、この居酒屋はせっかく安くて旨い酒があるのに、大した売上が上がっていないのだが、当の女店主は大して気にしていないのだった。
「それで旦那、注文は?」
ウキウキとした表情で潤三に問う女店主巡は、カウンターの内側から身を乗り出している。
「コニャック…前に来た時はあったよね?」
「あいよっ!!コニャックね!!前の時より良いの仕入れてるよ!!」
潤三の注文に威勢良く答える巡。
「あ、お通しは要らないよ。怒られるからね。」
酒の準備を始めた巡に、潤三はそう伝える。
「分かってるよ…私だってまだ死にたくないんだ。」
不承不承というふうに言葉を返す巡に、店内の男たちに動揺が奔る。
それも当然。この店ではお通しは絶対だ。どんなに拒否、拒絶しようと出て来るし、箸をつけなければ給仕に半殺しにされるのがお決まりであり、それを平然と拒否しておきながら、客の恐れる給仕の男が、顔色を悪くして油汗を流しているからだ。
そんな客たちの動揺など気にせずに、巡は潤三の前にグラスを置く。
「もうすぐ来るよ。なんせ、血の海が何箇所も出来てたらしいからね。」
彼女の言葉に潤三は笑い、給仕の男の顔色はより一層悪くなった。
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