第22話 心ここにあらず
朝目覚めた虎千代は、顔を洗って居間に行く。
居ない方が平和で、心と肉体が安寧する筈の母が昨夜家を出た。
恐怖感と苦手意識しか無かった母が、以前、二年間もの間家に帰らなかった時、一家は平穏そのものだった。
しかし、此度の母の不在は様子が違った。
以前の不在は仕事で仕方ないことだったが、今回は違う。
夫婦喧嘩が原因の家出。いつ帰って来るのかも分からなければ、このまま終わりという可能性も有り得る。
毎朝、笑顔で迎え、美味しい朝食を準備してくれていた父は台所で、脱け殻の様な生気の宿らぬ表情をしており、焦げ臭い匂いが部屋中に充満している。
母が居ないことが最大の喜びだった虎千代でさえ、不安を感じながら、一夜明けた現在でも、昨夜起こったことが信じられないままであった。
虎千代は不安、潤三は後悔と悲嘆。
両者ともに異なる感情を抱いているが、両者共にどんよりとした空気が漂っている。
脱け殻の様な父に、なんと声を掛けてよいのか、今の状況をどう判断すればよいのか…
虎千代には分からなかった。
「…行ってきます。」
呟く様にそう言って、虎千代は朝食も食べずに、一時間以上早く家を出た。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−
「
新入生が入学して二日目の経津主命学園は、荒れに荒れていた。
血の気盛んな若人たちによる腕試しや力比べ、純粋な喧嘩…学園内のあらゆる場所で血みどろの戦いが巻き起こっていた。
そんな学園内を物思いに耽ながら歩く虎千代。
周囲の喧騒よりも、我が家に混乱の方が彼にとっては大問題だった。
「どうしたらいいんだ…」
どんよりとした空気を纏いながら呟く虎千代。
そんな彼の背後を、強烈な蹴りが襲った。
「経津主虎千代は、俺が討ち取った!!」
後頭部に完璧な蹴りが入り、勝利を確信した襲撃者。
「もし、母さんが実家に帰っていたら最悪だ…」
当の虎千代は、蹴りが入ったことにさえ気付いた様子もなく、ブツブツと呟きながら歩いていた。
「死ねやコラァ!!」
「その首、頂く。」
徒手に剣術、弓に銃…
虎千代は、多種多様な攻撃が直撃しているにも関わらず、それに気付くこともなく、無傷で自身の教室迄辿り着いた。
無意識に行ったそれは、絶大な恐怖を学園に巻き起こすのだが、当の本人はそれを知らなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−
古臭いカラフルな照明が闇夜を照らしている。
古びたビルや建物が建ち並び、嘗て車道だった道には、客引きの女性や、泥酔し嘔吐する者、殴り合いの喧嘩と、それを囃しながら眺める人々が溢れていた。
夜のスラム街。
酒や薬物、違法風俗やカジノによって構成されたその地を、ふらふらと歩く女。
街の目が、そんな女に集まっていた。
愁いを帯びた表情で歩くその女は、人の情欲を駆り立てる様な儚さと美しさを漂わせ、何より、衣服の上からでも分かる、並外れた大きな胸が、男たちの視線を釘付けにした。
しかし、彼女に向けられた色欲に満ちた目は、恐怖に満ちた目と変わった。
「姉さん…いくらだ?」
欲望を剥き出しにした醜悪な笑みで、女の肩を掴む大柄な男。この一帯では名の知れた凶悪な格闘家崩れの用心棒だ。
「…貴様の命では足りんぞ。」
掴んだ手に女の手が重なる。振り向いた女の目を見て、男は、本能的に逃げ出そうとしたが、既に遅かった。
「…っぁああああ!!…手が…俺の手がぁ!?」
ぐしゃぐしゃになった右手と、冷めた目で見る女を見て、痛みと恐怖で、大男が幼子の様に泣き叫ぶ。
そんな大男に、女は氷の様な声で言う。
「私に触れて良いのは…」
そこまで言って言葉に詰まる女。
「…潤三だけだ。」
そう呟いた時には、彼女の周りから人が逃げ去った後だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます