第9話 躾
虎春が産まれたばかり、虎千代がまだ幼子であった頃、彼は純粋な質問を父、潤三にした。
「なんで
強くなる為、そう言い聞かされ、日々拷問の様な鍛錬に勤しむ幼い虎千代にとって、母、寅華は恐怖と憎悪の対象でしかなかった。
そんな虎千代の質問に、父、潤三は曇りなき真っ直ぐな目で答えた。
「一目惚れしてしまったんだ。」
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寅華の手料理という名の破壊兵器を平らげ、深い闇へと意識が落ちた虎千代は、不思議な河を渡る手前で、幼き日の思い出、そんな記憶の断片が頭をよぎ現世へと舞い戻った。
「父さん…今も後悔してないの?」
潤三が寅華に向ける瞳は、あの頃から変わっていない。
あの時から、大魔王と結婚したことを後悔しているのなら、きっと今も変わらず後悔している筈だ。
でも、あの時に見せた真っ直ぐな目は、きっと今も、自分の知らない、二人の出会った日から変わっていないのだろう。
「父さんも大概だよ…」
母の影に隠れがちだが、父も大概だと虎千代は思いながら寝返りをうった時、ここが自室のベットの上だと知る。
のそのそと時計を見ると、時間は深夜を周っている。
誰がここまで運んでくれたのだろう?丁寧に掛けられた布団の感触を感じながら、虎千代は考える。
虎春ちゃん?それぞれ父さん?
虎千代の頭の中に、自身を運んだのが母であるという可能性は微塵も存在していなかった。
「誰でもいいか…生きてるみたいだし。」
生死を賭けた母の手料理との戦いを制した。それだけで十分だし、そんな激闘の末、意識を失っていたのだから、起きる気力さえ起きない。
「まだ意識が朦朧とするよ…肋も戻ってないし…」
霞む視界と、やけに寂しいままの胸部を擦り、虎千代は再び眠りについた。
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「遅刻だ…」
深い眠りから覚めた虎千代は、目覚めると同時に遅刻を悟る。
時刻は10時を回っており、完全な遅刻。ここまで遅れたら、最早慌てる気も起きず、もう今日は休みでいいやとさえ思えてくる。
「おはよう…」
そう言いながらノソっと居間に姿を出すと、妹、虎春がソファーで仰向けになりながら、スマホを弄っていた。
「あれ?虎春ちゃん学校は?」
自分同様、寝坊して諦めモードなのか、乱暴に置き捨てられたランドセルが床に転がっている。
「行かないわよ。てか、今まで一回も行ってないわよ。」
今更、当然のことを聞くのだ?と威圧的な眼光を虎千代に向けながら、呆れた様に言う妹。
「いやいやいや!!毎朝一緒に家を出てたじゃないか!?」
そう、毎日一緒に通学していた妹。学校に行ってないなど有り得ない筈。
「アンタ…本当に学校なんか行ってたの?呆れた…」
なのに、何故か妹から驚愕の目を向けられた。
「勉強なんかしてどうするのよ?あの脳筋悪魔の血が入った私たちに勉強なんか出来るわけないじゃない。だったらそれに使う時間をそのへんのチンピラ狩ってお小遣い稼ぐ方がましよ。」
小学生とは思えぬ羽振りの良さを時折見せる妹。その背景には、そんなことがあったのか…
一瞬納得しかけた虎千代だったが、直ぐに首を振って否定する。
「駄目だ!そんなの駄目だよ虎春ちゃん!!それじゃあ、あの大魔王と同じ…」
そう言いかけた時、強烈な飛び蹴りが虎千代の顔面を襲った。
「誰があんな脳筋大馬鹿クソ悪魔と一緒ですって!!」
流石に、寅華と同列扱いは虎春にとっても最大レベルの罵倒だったらしい。
妹が今まで見たことないくらい怒り狂っている。
「ゴミ虫!!アンタ、私をあんなヤツと一緒だと考えてたのね!!許さないから!!」
仰向けに倒れた虎千代に馬乗りになって拳を何度も叩きつける。
「ち、違うよ虎春ちゃん!!そうじゃなくって!!あんな最低最悪な脳筋馬鹿にならない様にと…」
殴打されながら、虎千代は必死に語りかける。
「お前ら、昨日の今日だと言うのに、良い度胸だ。」
ズォッ!と呼吸するのさえ苦しくなる程の圧が虎千代と虎春を襲う。
「か、母様…い、いつからおられたのです…」
汗が吹き出た真っ青な顔で虎春が振り返ってとう。
「バカ息子が居間に来た時からだ。気配を消していたとはいえ、気付かぬとはな…やはり鍛え直した方が良いようだ。」
ただでさえ鋭い目つきを更に鋭くした寅華が溜息を吐きながら近付いて来る。
虎千代も虎春も、ただただ震えることしか出来なかった。
「虎春…お前は、才能はあるが、それに胡座をかき、如何せん怠け過ぎだな。」
ポン、と虎春の頭に置かれる寅華の手。
「か…母様…ごめんなさい…」
ただそれだけで、ヒュゥ、ヒュゥと苦しそうな荒い呼吸となり、窒息した様に、涙と涎が溢れ出し、恐怖に震える虎春。
「謝らずともよい。お前はまだ若い。今から鍛え直せば、私の子に相応しい力を得るだろう…貴様の言う、脳筋大馬鹿クソ悪魔に近い力をな…」
殺気が漏れる笑みを虎春に向ける寅華。
寅華の殺気を受けた虎春の震えは止まる。馬乗りになられた虎千代の腹部を、妙に温かい液体が濡した。
「情けない…この程度で失禁しおって。」
娘をソファに投げ、フン、と鼻を鳴らす母。
ソファに落ちた虎春は、口から泡を吹き、下半身をぐっしょりと濡して気絶していた。
「さて、バカ息子。話がある。」
仰向けに倒れたままの虎千代の頭を、素足で踏みつけながら寅華がそう言う。
「は、話ですか?」
なら、足を退けてくれ。そう思いながらも、頭蓋骨が砕けそうな力に、虎千代は、そうとしか返せなかった。
「そうだ、大切な話だ。」
グリグリと足を動かし、的確にダメージを入れてくる母はそう告げる。
大切な話…碌な話じゃないな。そう確信めいたものを虎千代は抱いた。
「じゃ、じゃあ、その話を早くしてくれませんか?」
辛うじて悲鳴を上げていないが、痛みも頭蓋骨も限界に近い。
「そうだな…だが、話の前に躾が必要だろう?」
叩きつけられた拳の衝撃で、全身の骨が砕けるのを感じながら、虎千代の視界は真っ暗になった。
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