第3話 気をつけて
「あなた、気をつけて」
中田吉雄は何気ない妻の言葉に振り返った。妻が傘を手に持って立っている。
「さっき天気予報みたら、今日雨なんですって。傘持って行ったほうが良いわ」
「ああ、そうだな。ありがとう」
吉雄は妻の手から傘を受け取り、その頬にキスをした。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。今日もお仕事頑張ってね」
妻に見送られながら家を出て、廊下の先にあるエレベーターのボタンを押す。ほどなくエレベーターは音もなく到着した。
「あ、おはようございます」
先客の大学生の青年が笑顔で声をかけてくれる。
「ああ、おはよう。今日は朝からなの?」
「ええ、ほんとだるいっすよ」
「はは、俺も大学時代は朝の講義が面倒だったよ」
この青年とは、たまにエレベーターで鉢合わせるうちに自然と挨拶し合う仲になった。上の階に住んでいて、今年から近くの大学に通っているらしい。
ほどなく、エレベーターは1階に到着した。また音もなく扉がひらく。片手に持ったゴミ袋を少し持ち上げ、青年は言った。
「あ、僕ゴミ出してから行きますんで」
「ああ、勉強頑張ってな」
「ありがとうございます」
吉雄が先にエレベーターを降り、出口に向かって歩き始めた。その時——
「気をつけてください」
思わず吉雄は振り返った。青年はエレベーターを降りたところでこちらを見ながら軽く頭を下げ、ゴミ捨て場のほうへ行ってしまった。
今の声は青年が俺に言ったのだろう、多分——
何故わざわざ振り返ったのかもわからず、吉雄は自分自身に首をかしげた。
最寄り駅に着くと、丁度乗るべき電車は到着するところだった。吉雄は少し駆け足で階段を上がっていく。
発車メロディが鳴り、自分の他に数人が駆け足で電車に乗り込んでいく。吉雄も少し遅れて乗る事ができた。弾む息を整えるように小さく深呼吸をしていると、丁度メロディが終わり扉が閉まろうとする。
「気をつけてください」
吉雄は振り返る。すでに扉は閉まり、駅のホームが後ろへ後ろへと流れている。駆け込み乗車に関する注意が促すアナウンスが、社内のスピーカーから淡々と流れてくる。少し気まずさを感じながら、揺れる吊革を捕まえた。
午前中の仕事も終わり昼休み、吉雄は昼食を摂るためオフィスを出た。最近は愛妻弁当があるので、一つ下の階にある食堂へ向かう。
「中田、今日も愛妻弁当か? 良いなぁ、俺にも寄こせよ」
「嫌だよ。お前も早く良い嫁さん貰えよ」
毎回社内で会うたびに何かと絡んでくる同期に、これも毎回のように軽くあしらいながらその横をすり抜けて歩いていく。
「気をつけろよ」
振り返ると、「そういうの、パワハラになるぞ」とにやにや笑いながら言う同期が居た。「はいはい」と再びあしらいながら、足早に食堂へ急いだ。
午後の仕事をしながら、吉雄は考えた。
今日は妙に「気をつけて」という言葉を聞く気がする。
とはいえ、言われたタイミングに不思議なところはない。気にしすぎか?疲れているのかもしれないな——ここ最近は仕事に根を詰めすぎていた。月末にでも有休を取って、久しぶりに嫁と旅行にでも行こうか。そんな事を考えながら、吉雄はパソコンに向かっていた。
「気をつけろよ」
思わず振り返ると、そこには上司が居た。冷たい汗が一筋流れる。上司は吉雄の様子に驚きながらも、時計を見せながら言った。
「この後お前A社で打ち合わせだろう。時間に気をつけておけよ」
「ああ、そうですね。ちょっと早いですけど、そろそろ出ます」
「お前大丈夫か? 少し顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。ちょっと考え事してただけで」
苦笑いを返しながら、吉雄はそそくさと席を立ってオフィスを出ていった。
やっぱり、何か引っかかる。取引先に向かいながら、吉雄は考えた。
やはり今日はやたらと「気をつけて」という言葉が耳に残る。いつもなら気にならないのに、今日に限って。
考えないようにしても、知らず耳が鋭敏になり町の雑音の中で「気をつけて」という声が聞こえないか、と探してしまう。
信号に差し掛かった。赤信号だ。信号を待ちながら、吉雄は時計を見る。約束まではまだ相当時間がある。
早く出過ぎたかもしれない、と吉雄は少し後悔した。疲れているだけだ、今日は早めに帰ろう——点滅する信号を見ながら、吉雄は思った。
信号が青に変わる。吉雄は信号が変わったのを確認してから、足早に歩き始めた。横断歩道の真ん中に差し掛かった、その時——
「気をつけろ」
耳元で誰かがささやいた気がして、吉雄は思わず振り返った。そこには誰も居らず、信号はまだ青信号のままだ。やはり気のせいだよな、と息を吐いて振り返ろうとした。
けたたましいブレーキ音と凄まじい衝撃が吉雄を襲う。自分の身体に今まで感じたことのない浮遊感がある。スローモーションのように流れる世界の中で、横転する大型トラックが目に入った。周りの人々の悲鳴が遠くから聞こえてくる。
激しい衝撃と共に、地面に叩きつけられる。身体がまったく動かず、そこかしこが火のように熱い。
薄れゆく意識の中、沈んでいく視界の中、耳元で誰かが言った。
「だから、気をつけろって言ったのに」
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