第4話 夫の癖
夫は嘘をつく時、片頬を引きつらせるように笑う。その癖を知っているのは私だけ。
「今日は会社の飲み会で遅くなるから」
スーツに着替えながら夫はこちらも見ずにそう告げた。いつもの事だ。ここ数年家での会話は業務連絡のみになってしまった。
「あら今日もなの?」
私はいつも通り努めて明るく答える。なるべく感情を見せないようにしたつもりが、思った以上に冷たい声が漏れ出てしまった。夫はこちらを向く事はなく、その顔色をうかがう事はできない。私も無理に見ようとはしない。見てもきっと、嫌な気分になるだけ。
「仕方がないだろう。仕事なんだから」
夫は溜息と共に言葉を吐き捨てた。私と話すのがそんなに面倒くさいのだろうか?
「そうね、ごめんなさい」
私は申し訳なさそうに頭を下げ、キッチンへ戻った。結婚して数年、夫に朝のコーヒーを入れるのも手慣れたものだ。一人暮らしの時はコーヒーなんて買って飲むだけだったけど、夫は朝は必ず曳きたてのコーヒーを飲まないと嫌だと言うので覚えた。
新婚の時は何度も駄目出しされ、「こんなの飲めるか」と流しに捨てられた事もある。おかげでここ2,3年は文句を言われる事もなくなった。感謝もされないけれど。
「じゃあ、お夕飯はいらないかしら?」
コーヒーを淹れながら問いかける。答えはわかってるけど。
「ああ、外で済ませてくる」
済ませてくる、ね……——食事と一緒に、何を済ませてくるんだか。
「じゃあ、今日は出前でも取ろうかな。お隣の奥様に教えてもらった所がすごく美味しそうだったの」
黒々と輝く液体に最後の隠し味。そしてそれをカップに注ぐ。夫は新聞を流し読みしながら、トーストをかじっている。むろん、こちらを見る事はない。
「そうか、あまり無駄遣いするなよ」
きっと私の事なんて興味ないのだろう。多分私が何が好きで、何が嫌いかも、彼は答えられない。
カップを夫の目の前に置く。彼は何も言わずにそれを取り、ゆっくりと飲む。私はその姿を正面に座ってじっと見つめる。
「ねえ、もしそのコーヒーに毒が入ってたらどうする?」
夫は眉をひそめた。これは機嫌を損ねた時の顔。全部知ってる。
「なんだよそれ、お前が入れたってのか?」
夫は初めて私を見た。馬鹿にしたような、蔑んだような、でもちょっと怖がっているような、そんな目。
「まさか。ちょっと聞いてみただけ」
私は彼の目を真っすぐに見つめながら柔らかく微笑む。こうすれば彼が安心するって、知ってるから。案の定彼は少し安堵したように小さく息をついてから、また視線をそらした。
「じゃあ、俺行くから」
コーヒーを飲み干し玄関へ向かう夫に、鞄を持って私もついていく。こちらを振り返る事はない。私が見送るのは彼の中では決定事項だから。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
差し出された鞄を、一瞥もなく受け取る夫。今朝の会話は少しやりすぎたかもしれない。反省しよう。
扉を出ようとする夫の背中、何百回と見てきた光景。あと何回見る事になるのだろうか。
「ねえ、あなた」私の問いかけに、彼は振り向いた。不機嫌そうに眉をしかめた顔。急いでるのよね、知ってる。でも、これも日課だから。
「愛してるわ」
これは、嘘偽りのない私の本心。世の中での定義が違ったとしても、私の中ではこれは愛と言う形なのだ。
「ああ、俺も愛してるよ」
彼は笑った。片頬を引きつらせて。
嘘つき。
彼はそのまま出ていった。閉まったドアをぼんやりと眺めながら考える。もし、彼がすぐに帰ってきて、本心から私に愛を伝えてくれたら……。
しかし、すぐに馬鹿馬鹿しい妄想を振り払って、私は朝食の片づけをしに部屋へ戻った。
テーブルには飲み干されたコーヒーカップ。
夫は嘘をつく時片頬を引きつらせて笑う。その癖を知ってるのは私だけ。
私も嘘をつく時にする癖がある。でもその癖を、夫は知らない。きっとこれから先も、気づく事はないだろう。
私はコーヒーカップを流しへ持っていき、丁寧に洗ってから棚にしまった。
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