§ 第3話 §


 リカルディは湯船に浸かり、天井を眺める。

 こうしてのんびりと湯船に浸かるのはいつぶりだろうか、と考えて、直ぐに思い至った。

 ドラゴン討伐にと出立する前日だろう。

 道中で体を洗う事は出来たが、このような湯船に入ることは出来なかった。

 今は誰も居ないため、一糸まとまぬ姿だった。

 洗うつもりの無かった左腕はスノウリリーによって丁寧に洗われた。

 まさか触ることにも躊躇いをもたないとは思わなかった。

 感情のない、人形のような表情。

 昔見た時はそうではなかったはずだ。

 子爵家の跡継ぎとして、不安や期待、興奮といった、複雑ながらも、女性当主になる事に対し、多少の背伸びはあっただろうが、それに相応しい存在に成れるよう努力し振る舞っていた覚えがある。

 少なくともこれほどまでに人形の様な表情ではなかったはずだ。

 そこまで思って彼は、そんな思考に陥っている自分に眉を寄せた。

 人の事など考えて居られる状況なのか、と。

 左腕を見る。

 変わらず、黒い鱗に覆われた腕がある。

 左腕を縁に叩きつけようと振り下ろす直前、動きを止めた。

 そういえば、スノウリリーがハサミを持っていた、と思い出す。

 彼は湯船から出て、バスローブを掴み、歩きながら羽織る。

 部屋に戻ると、室内の空気は一変していた。

 窓もカーテンも全て開け放たれていて、暗かった室内は光に溢れている。

 室外から持ってきて、すでに破片となり散乱してた物達は片付けられている。

 だが、スノウリリーの姿はない。

 リカルディは明るい室内を歩き、寝台がある寝室へと続く扉を明ける。

 寝台のシーツは取り外されていて、まだ替えのものに張り替えられていない。

 通常であれば、取るのと同時に新しいシーツに張り替えるのだが、その準備まではしていなかったのだろう。

 そしてこちらにもスノウリリーは居なかった。

 廊下に戻り、廊下の先を見つめたがその姿は無い。


 このままスノウリリーは戻って来ない。


 とは、流石にもう思えなかった。

 そのような人物だったら、風呂の世話までは出来ないだろう。

 室内に戻り、カーテンを握る。

 だが、彼は閉める事無くそのまま手を離し、ソファーに体を預ける事にした。 

 しばらく待っているとスノウリリーが戻ってきた。

 目が合った。

 無表情の中に、彼女が驚いているのではないか、と思ったリカルディは、尋ねる。


「戻ってきてはいけなかったか?」

「いいえ、もちろんそんな事はありません。シーツを今すぐ張り替えますので少々お待ちください」

「待て」


 寝室へと向かうスノウリリーをリカルディは呼び止めた。


「先にハサミを。持っているんだろ?」


 スノウリリーはバスローブ姿の彼を見て、室内着も今の姿に合わせたものが無い事を察した。


「殿下が直接、袖を切るのですか?」

「……自分の物だ。その方が良いだろう」


 それもそうか、と、スノウリリーはハサミを渡し、寝室へと入っていく。

 その姿が見えなくなって、リカルディは裁断用のハサミに魔力を通すと淡く光り出した。

 そして、彼は躊躇いも無く、そのハサミを左腕に突き刺す。

 硬い音がして、ハサミの先が曲がる。

 そして黒い鱗は、少し凹んだだろうか、と言う程度にしか損傷していなかった。


「くそっ!」


 先日のように何度もハサミを叩きつける。

 それでも結果は変わらない。ぐにゃりとハサミが歪な形に変形していくだけだ。


「殿下。お止めください」


 スノウリリーが静かに声をかけ、動きの止まったリカルディからハサミを取る。

 リカルディは抵抗する事は無かった。だがやがて、何も持たない右手は拳が握られていく。

 その拳が、悔しさを表していた。


「……左腕を切り落としたいのですか?」


 スノウリリーは静かに問いかける。

 最初は衝動的かと思ったが、見られた事に慌てる事もない姿を見れば、これまでにも何度か行っていた事が察せられた。


「ああ」

「切り落としてどうするのです? 捨てるのですか?」

「ああ、そうだ。こんな呪われた腕があるぐらいなら隻腕の方がマシだろう」

「……捨てるのですね?」

「あ?」

「殿下は、この左腕がいらないのですね?」

「……そうだが?」


 何故、わざわざ、問い返す? と戸惑いながらリカルディは答える。

 スノウリリーはリカルディの左側に立つ。

 黒い鱗に覆われた左腕の側に。


「では、殿下。この左腕、わたくしにくださいませんか?」

「は?」

「もちろん、切り落とせという意味ではありません。この左腕のみ、所有権を殿下から、わたくしへと譲渡してくださいませ、と言ってます」

「いや、意味が分からん」


 そう突っ込む自分は間違っていないはずだ。と、リカルディは思った。

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