目覚め

 私の眼前のよく見知った人は、悪魔に魂を売り飛ばし悪鬼と化していた。

 やめて、と叫ぶ声は届かない。凶刃が私に迫る。そして――

「……ふにゃ?」

 目が覚めると、燦々と差し込む朝陽が目に染みた。寝起きのぼんやりとした頭で考える。悪夢を見ていた気がする。私、今まで何をしていたんだっけ?

「って、やばーい! 遅刻する!」

 霞がかった思考のまま周囲を見回すと、起床時刻をとっくに過ぎたベッド脇の目覚まし時計が目に入り、慌てて飛び起きた。

 何か大事なことがあったような気がする。しかし、遅刻するかもしれない瀬戸際、気にしている余裕などなかった。

「お父さんは……もう出掛けたよね」

 階段を駆け降りた勢いを殺してリビングをちらりと覗いてみたが、父の姿はなかった。我が家は父子家庭で、父は朝早くから出勤して仕事に励んでいる。その分早く帰宅できるため、部活帰りの私をいつもあたたかく出迎えてくれる。優しい自慢のお父さんだ。

 朝食を泣く泣く諦めて家を飛び出し、通学路を全力ダッシュしていると、「あら」と声を掛けられた。

「おはよう、華ちゃん」

 私は慌てて急ブレーキをかけて、声の主を振り返った。

瑛里エリさん! おはようございます」

 加賀美カガミ瑛里さん。50歳を過ぎているとは思えない美貌の持ち主で、動画投稿サイト〈ヨーチューン〉の登録者数100万人超の有名インフルエンサーでもある。最近はテレビにも多数出演しており、いわゆる美魔女として世間に名を馳せているが、本人は全く気取らずいる上品なおばさまだ。彼女の人気の秘訣はここにあるのだろう。かく言う私も密かに憧れていたりする。

 瑛里さんは皺一つない美しいかんばせで微笑んだ。

「ねぇ華ちゃん、またウチでお茶でもいかが? 良い茶葉が入ったの」

「え! いいんですか!?」私はパッと顔を輝かせた。願ってもいないチャンスだ。「あっでも……今遅刻しそうなんで、返事、後でもいいですか?」

「いいのよ、急に呼び止めてごめんなさいね。気をつけていってらっしゃい」

「はーい、行ってきまーす!」

 上品に手を振る瑛里さんに手を振り返し、私はそのまま通学路を駆け抜けた。


 ◇


 猛ダッシュの末、なんとか遅刻ギリギリで教室に滑り込むことが出来た、のだが。

「え……」

 私は自身の机を目の当たりに、愕然と立ち尽くした。

 机の上には、一輪の菊の花が飾られていたからだ。

「やだな、もー。誰のイタズラ?」

 あえて明るく振る舞うも、誰も反応を示さない。それどころか、私の姿や声を認識していないかのように、皆ひそひそと声を潜めて何やら話し合っている。その様子を見て、私は確信した。

 私、虐められてるんだ。菊の花を飾るタチの悪いイタズラは、私に死ねと言っているんだろう。でも、どうして私が? 私は何かしただろうか? 考えてみても、全く心当たりがない。

 じんわりと視界が滲む。込み上げてきたものをグッと堪えながら、私は教室を飛び出した。もう、ここには居られない。

 世界が一夜にして変わってしまった、そんな感覚に襲われて足元がぐにゃりと歪む。昨日までは確かに普通だったはずなのに、唐突に居場所がなくなってしまったみたいで。

「うわっ」

 前方不注意だった私は、飛び出した勢いのまま、誰かにぶつかりそうになった。急ブレーキが間に合い、寸でのところで衝突を回避。

「ごめんなさいっ」

 謝罪と共に顔を上げたところ、相手とバッチリと目が合った。確か、隣のクラスの――ミカドクン、だったっけ。いつも寝ていて、影が薄い男の子。

「……げ」

 ちょっと待って。今コイツ、人の顔見るなりげ、って言わなかった? でも、無視はしなかった。それが堪らなく嬉しくて、私はミカドクンのブレザーの襟を掴んで詰め寄った。

「ね、ミカドクン聞いて! 私クラスで虐められてるみたいなの。何か知らない?」

「はぁ?」ミカドクンはあからさまに顔を顰めた。小馬鹿にしている顔だ。「何寝惚けたこと言ってんの? アンタ、けど」

「――え」

 思いもよらぬ一言に思考が停止する。一拍置いて、私は盛大に叫んだ。

「えぇーーーっ!!?」

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