◇


「追いかけて来てない……よね」

 息を切らしながら背後を確認すると、今まさに地平線に沈もうとしている夕陽が目に染みた。学校から随分と離れたみたいだ。人影らしきものは見当たらない。

 わたしはほぅ、と安堵の息を零すと、先程の出来事を頭の中で反芻した。人ならざるモノに襲われるのは慣れている。

 わたし――木下憂は呪われている。そう告げられて、いったい誰が信じるだろう。でも、事実なのだから仕方ない。

 少しだけ壮大な話になってしまうけれど、木下の先祖には摂津源氏のみなもとの頼政よりまさ公がいるらしい。頼政公といえば鵺退治で知られる、平安時代を代表する怪異キラーの一人だ。そんな因果から頼政公の子孫である木下の人々はいつしか鬼や妖怪といった、人の負の感情エネルギーから生じたモノ――総じて陰法師と呼ばれる存在を引き寄せる体質になったという。

 そんな家系に生を受けたわたしは、陰法師を引き寄せる力が一際強かった。何百年に一度レベルとも聞いた。どうしてわたしだけ、と涙で枕を濡らした時期もあったそうだ。そんなわたしに亡くなった祖父はこう説いた。


『憂は他人ひととは違うが、それを恥じることはない。他人と違う分、他人に優しくしなさい』


 祖父の教えは、今もわたしの根底に深く根づいている。皆が嫌がる雑用をこなすのも、祖父の言いつけを律儀に守っているから。自分が普通でない分、皆が思う普通の良い子を演じているだけ。本当は褒め称えられるような立派な人間なんかじゃないのだ。

 わたしは自らの体質に周囲を巻き込まないよう、なるべく目立たず日々を過ごすことを心がけた。更に神職でもあった祖父はわたしの身を案じてお守りもくれた。刀身のない刀――通称〈十握剣とつかのつるぎ〉は、陰法師が纏う負のエネルギー、すなわち陰気の総量に応じて刀身が伸びる不思議な造りになっている。一刀の元に陰気を斬り裂く、対魔の太刀だ。陰気を感知しなければ刃が出現しないため、十握剣を持ち歩いていても銃刀法には引っ掛からない。そのため、いつ狙われてもいいように常に肌身離さず携帯しているのだが。

「――あ」

 はたと気づく。その大事なお守りを、さっき御門くんに投げつけたまま、回収せずに逃げてきてしまった!

「どうしよう……」

 戻るか否か、逡巡したその時。またしても背筋を駆け上る悪寒に襲われた。

 時刻は逢魔刻。昼と夜の境界、魔が蠢動し始める頃合い。本能がけたたましく警鐘を鳴らす。呼吸が自然と浅くなり、心臓の鼓動が大きく速くなる。逃げないと。理解しているのに、蛇に睨まれた蛙の如く。足は根を張ったように動いてくれない。

 どうにか視線だけ動かすと、見上げるくらい大きな黒い靄が見えた。

「憎い……憎い。殺す、殺す殺す殺してやる! たたタた祟ってやるるゥう!」

 声音の異なる声達が一斉に怨嗟を叫ぶ。靄のように見えるのは、濃い陰気の塊だ。きっとあれは、人々の悪意の集合体。近頃散々取り上げられていた会社社長の感電死事件のニュースがふと脳裏を過ぎる。実は祟りの仕業なのだとまことしやかに囁かれていたっけ。祟られても仕方ないと噂されるほど被害者は悪意を集めていたのだろう。被害者へと寄せられた悪意が可視化できるのならば、きっとこんな姿に違いない。あまりの醜悪さから吐き気に襲われ、思わず疼くまる。

 わたしを捉えた靄が、手を伸ばしてくる。呑まれたらひとたまりもない。

 ――ああ、わたしはここで死ぬのか。

 わたしは目を閉じ、全てを諦め受け入れた。

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