第2話 かけがえのない日々は瞬きの間に
そうして二人の生活は始まった。
イグニスは毎日朝早くから食糧を集め、昼の間は外に出られない巫女に代わり食事の準備や洗濯を行い、日が落ちて夜になると少女の散歩に付き添って言葉を交わした。
彼は最初のうちこそ
洞窟での日々はそれまでの暮らしを思えば考えられないほど穏やかで、戸惑うことも多かった。それでもただ働くのではない、シンシアと過ごす日常は青年の心に安らぎをもたらしていた。
だが、一方で彼にはある悩みの種があった。
「あ、シンシア。危ないよ、まだ体温が上がってないじゃないか」
「ごめんなさい。……ここから
それはひとえに少女の体の弱さだ。
シンシアは異常に体温が低かった。それこそ決まった時間に温かい食事を摂らなければあっという間に凍えて動けなくなってしまうほどに。
「もしまた倒れたらと思うと気が気じゃないんだよ。人間は生まれ変われるけど、
「……。でも、今はきみが見てるじゃない」
ぷくりと頬を膨らませるシンシア。拗ねたようなその仕草に、イグニスは苦笑気味に答える。
「いや、それだけビックリしたんだ。あの時は本当に心臓が飛び出るかと思ったんだよ」
初めてその場面に遭遇したイグニスの驚きは筆舌に尽くしがたいものだった。
倒れているシンシアを見て驚き、黒ずんだ肌を見て声を失い、氷のように冷たい手足に触れて飛び上がった。
──呼吸が浅い、早く暖めないと。火。ダメだ間に合わない。他に何か、熱、与える、藍晶石!
目まぐるしく思考した彼はすぐさま洞窟内を駆け抜け、壁に埋まった青い石を力任せに引っ剥がした。傷ついた指先から血が滴る。好都合。石片を握りしめ、イグニスはもと来た道を全力で引き返す。
彼の持つ藍晶石は血に触れることで熱を奪う不思議な石だ。最初に触れたものから熱を奪い、次に触れたものにそれを与える。余談だが『陽だまりの神殿』など不死鳥にゆかりのある場所で見つかることが多いため『不死鳥の瞳』とも呼ばれる。
大急ぎで駆け戻った青年は冷たくなった真っ白な少女に石を握らせる。すると、どうだ。みるみるうちに顔色が良くなり、静かに寝息を立て始めたではないか。
青年は深く安堵の息を吐き、その場に倒れ込んだ。
今でこそヒヤリとした思い出話になっているが、その一件以降、イグニスは藍晶石を首から下げ、片時も手放さなくなっていた。
「そうだ。シンシア、君に贈り物があるんだ。果物は好きかい?」
食べ終えた皿を片付けていたイグニスは思い出したように明るい口調で問いかける。シンシアの「どんな味?」に、「甘酸っぱい感じ」と答えると彼女は嬉しそうにパタパタと翼をはためかせた。
イグニスは顔を
「インカベリーっていうんだ。
シンシアは興味深げに一つ摘み、口に運ぶ。
噛むとプチっとした食感で、オレンジを食べた時のような酸味のあと、じんわりと優しい甘味が口に広がる。クセがなくて、これなら何粒でも食べられそうだ。
「美味しい。なんだか不思議な食べ物だね」
「気に入ってくれたら嬉しいよ。他にも都に行けばペピーノ(※キュウリみたいな見た目でメロンっぽい味がするナス)も採れるんだ。もうすぐ復活祭だろう? こっそりとここにも融通してくれないか頼んでみようと思ってるんだ」
何気ないイグニスの一言に、それまで楽しそうだったシンシアの表情が固まった。
陶器のような色白の肌が青ざめ、呼吸が乱れる。様子がおかしい。
「……シンシア? 大丈夫かい?」
自らの翼で身体を包む少女に駆け寄り、青年はそっと大きな毛布をかけた。
「コッ……。だい、じょ……ゴホッ、ゴホッ!」
血がイグニスの手に飛び散った。
大量の記憶が流れ込み、視界が暗転する。
そこは広場だった。そこには整然と人間が横たえられている。異様な熱気に包まれ、取り囲むように大量の天使たちがこちらを見つめている。
『────誕の儀を──。我らは──再び生を──。──福せよ! 新しい同胞の誕生を!』
これはシンシアの記憶……? 体が動かせない。くぐもってよく聞こえない。あの声は大神官だろうか? 何をしている?
混乱するイグニスの目の端で黒い刃が掲げられ、そのまま容赦なく振り下ろされた。
景色が回る、ぐるりぐるりと。頭から全てが流れ出る。首が焼いた石を押しつけられたように熱い。なのに流れる。止まらない。熱い。熱い、熱い熱い熱い。
真っ赤な滝が流れていた。燃え盛る血を浴びて天使となったニンゲンが立ち上がった。歓声が
目の前が暗くなっていく。自分が終わる。終わっていく。終わって、終わって……終わって…………オわり。
目を見開く。荒い息をしながらイグニスは慌てて首に手をやった。良かった、繋がっている。
ホッとしたのも束の間。咳き込むシンシアを寝台に運び、藍晶石を握らせた。
事態が落ち着いたのはその日の夜だった。
「落ち着いたかい?」
「……うん。平気。驚かせてごめんなさい」
下を向いたまま静かにコーヒーをすする少女を見つめ、言おうか言うまいか散々悩んだ末に青年は口を開いた。
「さっき、儀式の記憶を見たんだ」
ピクリとシンシアの肩が震える。イグニスは様子をうかがいながら、ゆっくりと言葉を選んで続けた。
「見たじゃなくて追体験した、かな。最初は何が何だかわからなかったけど、あれはたぶん『再誕の儀』の光景だったと思う」
思い出すだけで気分が悪くなる出来事だったが、終わる間際に見た光景では、確かに死体が翼を得て立ち上がっていた。
青年の言葉にシンシアは
「でも、それだと死者の数が足りないんだ」
イグニスが体験したあれがいつの年の記憶だったかはわからないが、祭りは年に一度。だが、一年の間に死ぬ人間は到底広場に並べられる数ではない。
「……それは、大神官が選んでいるから」
思わぬ言葉に驚く青年に、シンシアは表情を隠したまま続ける。
「彼らは
衝撃だった。イグニスの中で
ずっと憧れ、求めていた『死』は心胆から震え上がるような冷たさだった。当たり前だった常識は全て幻想だった。僕がしてきたことは全て──。
目の前が暗くなりかけたその時、シンシアの顔が見えた。寒さに震え、でも声も出さずに耐え忍ぶ
「いや、そんなわけがない」
無意味じゃない。無駄なんかじゃない。ずっとここまで歩いてきた道には意味がある。だって、『それ』にはもう出会えたじゃないか。
「シンシア。頼みがある」
いつになく真剣な声で呼びかける青年に少女は顔を上げた。
「僕は君の力になりたい。そのために生きたいんだ。だから、本当の君のことを教えてくれないか?」
イグニスはシンシアの目をひたと見つめ訴える。真っ白な少女の青い瞳がわずかに揺らぎ、しばらく見つめ合ったあと、観念したように伏せられた。
「……私ね。天使じゃないんだ。ううん、そもそも、初めから人じゃない」
ポツリと漏らされた言葉にイグニスの反応が遅れる。どういう、と口を開く前にシンシアは言った。
「あなたたちが
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