君を殺せと、天使が笑う

水永なずみ

第1話 奴隷と月の巫女

 その日、太陽の国『オーニス・イウェンタオ』では盛大な催しが開かれていた。


 露店には今朝採れたばかりの多くの作物が並び、そこかしこで陽気な音楽に合わせて踊る子供たちの笑い声が聞こえる。

 広場では色とりどりの装束に身を包んだ人々が手に手に楽器を携え、賑やかに『陽だまりの神殿』を目指して進んでいた。


 標高二千メートルに築かれた都市とは思えぬほどの熱気にあてられ、誰もがみな浮かれた様子で歌う。


「ここは楽園、神の国。天使が治める不死の国~♪ ようこそ皆様お揃いで。我らが神には会われたかい? まだなら行こうよ、聖火を見よう。終わって始まる素敵な儀式さ!」


 ***


 遠く、遠く。石壁の向こうから騒がしい祭りの音が聞こえる。

 青年、イグニスは思わずといった様子で掃除の手を止め、窓から外をうかがった。チラチラと視界を遮る黒い前髪を力なくかき上げた先にあるのはいやに澄み切った空と、の群れ。


 きっとどいつもこいつも笑っているのだろう。笑って、踊って、馬鹿みたいな行進をして神殿ここまでやってくるのだ。

 この祭りの目玉を見物するために。自らがあがめる神の最期と、それがもたらす奇跡を目にするために。


 この国は天使に支配されていた。全ての富と娯楽は天使のために存在し、人間はみな等しく奴隷である。その状況を変える方法はただ一つ。死後、儀式を経て天使として転生することのみだ。


 目をつむれば、全てを諦めたように空を見上げる儚げな少女の横顔が浮かぶ。

 ふつふつとやり場のない感情が込み上げてきて、イグニスはその身にまとう汗の染み込んだボロ布に額を押し付けた。


(逃げたい。やりたくない。でも──)


 彼女に言われたのだ。願われたのだ。「終わらせてほしい」と。

 細く吐き出した息が震える。覚悟なんかできないけれど、それでも意志だけは強く持って。用意された儀式用の上等な服に着替え、日に焼けた手で黒曜石の大斧を掴んだ。


 拘束され、目を伏せて横たわる不死鳥の巨躯きょくあおぎ、翼を持たない奴隷はそっと告げる。


「シンシア、君の望みは僕が叶えるよ。……何を犠牲にしても、必ず」


 その胸元で揺れる藍晶石らんしょうせきの首飾りを、不死鳥はただ静かに見つめていた。


 ………

 ……

 …


 イグニスは生まれながらの奴隷だった。いや、正しくは

 天使の住まう天空都市において生者の価値は低い。なにせこの国では儀式を経て、天使へと生まれ変わった死者のみが人権を得るのだ。

 そのため生者は死者をうらやみ、自ら死ぬために過酷な労働に身を投じる。その先には豊かな暮らしが待っているのだと頑なに信じて、彼らは休みなく働くのだ。


 生と死が逆転し、混在する国。それがイグニスの生まれた『オーニス・イウェンタオ』という国である。


 では、そんな世界で暮らす彼は不満を抱えていたのか。答えは否だった。

 人一倍丈夫な身体を持つ青年は、その分人一倍ひたむきに死を求めていた。同年代が次々と期待を胸に死んでいくさまを見送るたび憧れは強くなり、前にも増してよく働き、重労働も率先してこなした。だが、だからこそ──


「お前には今日から月の神殿にて、巫女の世話を申しつける」

「……え?」


 だからこそ、大神官から閑職への異動を告げられたのはショックだった。

 危うく飛び出そうになった抗議の言葉を「成果を出せばすぐに戻れる」と自分に言い聞かせてなんとか飲み込み、イグニスはその日のうちに都を出立した。


 広大なジャングルが遠くに見える高山地帯を数日かけて登り、すっかり日が暮れた頃に辿り着いた場所は、月明かりに照らされた『神殿』など名ばかりの洞窟。早くも彼の心は折れかけていた。


 洞窟内へ繋がる銀の扉を警備する、わしのような翼を持った二人の天使の前に立ち、奴隷は所属と名前を伝えた。


「都より参りましたイグニスと申します。大神官様の命を受け、これより月の巫女の世話を担当いたします」

「ああ、お前が世話役か。確かに了解した」


 兵士たちの手により重い扉が音を立てて開かれる。中程まで開いたところで突然イグニスの背中が強く押される。つんのめる彼の背に天使は言った。


「その先に月の巫女はいる。用があれば扉を叩いて知らせろ。……絶対にここから巫女を逃すなよ」


 重々しい音とともに扉が閉まり、鍵がかけられた。




 中は想像していたよりも広かった。

 イグニスは壁のあちこちに埋まった青く輝く石を手でなぞりながら比較的平らな地面を歩いていく。

 道中チョロチョロと壁を伝う水が、一箇所に溜まってできた小さな泉で喉を潤し、ついにほのかに明るい洞窟の奥へ到達した。

 暗がりに慣れた目を細め、思わずハッと息を呑む。


 そこには、紛れもない女神がいた。


 差し込んだ月明かりに照らされ、絹のように美しい白い髪が輝く。その背からは一対の、見たこともないような純白の翼が生え、時おり静かに揺れる。

 彼女は備え付けられた簡素な寝台の上に座り、その蒼穹そうきゅうを思わせる青い瞳でじっと月を眺めていた。


 しばし魅入られていた青年はふと我に返り、慌てて言った。


「自分は大神官様より命を受け参りました、イグニスと申します! 今日より貴女様の身の回りのお手伝いをいたします。なんなりとおっしゃってください」


 緊張した様子で立つ青年に、少女は静かに顔を向け「ありがとう」と答えた。谷の湧き水のように澄んだ声にイグニスの頰が思わず赤く染まる。

 それ以上言葉はなく、そのまましんと静かな時間が流れたため、「……では、夜も更けてまいりましたので、自分は失礼いたします」と一礼してイグニスはその場を後にした。

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