第15話 邪魔(4)

「大輔、あまり遠くに行っちゃだめよ」

 母の声が聞こえる。

 大輔は何度も、何度も振り返りながら、波打ち際で遊んでいた。

 大きなパラソルの下には、白いワンピースに麦わら帽子というスタイルの母が座っており、その隣には真壁の姿もあった。


 照りつける太陽の日差しが眩しかった。

 どこにでもいるような幸せな家族。


 そんなものに憧れた時期もあった。

 だが、そんなものはどこにもなかった。

 家族と呼べる存在はどこにもいない。

 自分を生んだ母親は、マンションから飛び降りて死んだ。


「大輔、戻ってらっしゃい」

 母の声が聞こえる。

 優しい母の声だ。

 いや、違う。

 優しい母など自分にはいなかった。

 母は自分を生んだ時から病んでいた。


 父親のことは何も知らない。

 母は何も教えてはくれなかった。

 唯一、教えてくれたこと。

 それは真壁という男の事だった。

 真壁がいたから、自分は生まれた。

 そう説明された。

 だから、一時期は真壁が自分の父親なのではないかと思っていた。

 真壁が父親だったら、どれだけ良かったか。

 しかし、その夢みたいな話は、すぐに違うとわかった。

 真壁は父親ではない。

 ただ、真壁が母を救ったことで、自分がこの世に生を受けることとなった。

 入水自殺をしようとした母を助けたのが真壁だったのだ。

 母は常に頭がおかしい人だった。

 だから、死ぬときも、わざわざ真壁の前で死んだ。

 一度は救われた命を、救ってくれた人の前で絶ったのだ。


「大輔、一緒に行きましょう」

 母は笑いながら、こちらに手を差し伸べてきた。

 優しい母の笑顔。

 だが、それは偽物だ。なぜならば、母の優しい笑顔などは見たことがないからだ。


「ふざけるな、地獄へ落ちるなら、ひとりで落ちやがれ」

 そう罵倒してやった。


 すると母のいる場所にぽっかりと大きな穴が開き、母はその穴の中へと消えていった。

 そして、物を詰め込んだ段ボール箱を落としたようなドスンという音が響いた。



 目を開けると、そこは四畳半ほどの小さな部屋だった。


「おっ、目を覚ましたか、大輔」

 体を起こすと、そこには直江の姿があった。


「あれ……」

 なぜここに自分がいるのか、大輔には理解が出来なかった。

 頭はどこかふわふわしている感じがした。


「やられたんだよ、お前も」

「え? 誰に?」

 大輔は直江が何を言っているのか理解できなかった。


「記憶が飛んだか。よくあることだよ」

 直江は笑いながら言う。


 格闘技などで強い打撃を顔や頭に受けてしまうと、脳が揺れるために記憶が一部欠落してしまうことがある。とある格闘家などは、パンチでKOされた後で起き上がって自分で控室まで戻ったが、自分が試合をしたという記憶がごっそりと無くなっていたという経験があるという話もあるほどだ。


「真壁さんだよ。俺も、大輔も、真壁さんに負けたんだ」

「そうなのか……」

 まだ大輔はよく理解が出来ていなかったが、直江がそういうのであれば、そうなのだろうと思っていた。


「それで、真壁さんは?」

「沖さん……あ、うちのトレーナーな。と、一緒に飲みに行ったよ。昼間から開いている店が駅のガード下にあるとかで」

「そうか、負けたのか」

 そう言った大輔は、口の中に違和感を覚えて何かを吐き出した。

 歯だった。歯が折れていたのだ。

 その歯を見た時、記憶の一部がよみがえってきた。


 何度目かのタックルだった。

 大輔のタックルはすべて真壁に見切られており、全部潰されていた。

 もう一度、タックルを仕掛ける。

 真壁は同じようにタックルを切ろうと、身体の重心を低くした。

 読み通りだった。

 タックルに行こうとした足を止めて、大輔は右手を大きく振った。

 ロシアンフック。少し前に流行った格闘技のパンチだった。ロシアの選手がよく使う大振りのフックだ。

 体重の乗った大輔の右拳は真壁の顔目掛けて飛んでいった。

 当たった。

 そう思った瞬間、大輔は下から来た衝撃に襲われていた。

 え?

 そう思ったと同時に、脳が揺れる。

 そして、暗転――――。


「膝蹴りだよ。カウンターの」

 手のひらの上に吐き出された歯を見つめている大輔に、直江が言った。


 真壁は、大輔のロシアンフックに合わせる形で膝蹴りを出してきたのだ。

 すべて大輔の行動は真壁に読まれていた。

 やはり、真壁の方が一枚も二枚も上手うわてだったのだ。


「そうか、負けたか」

 大輔はそうつぶやいて、笑った。大輔の前歯は一本欠けている状態だった。

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