第11話 リング
直江は、手にバンテージを巻いていた。
素手で殴り合うつもりはないようだ。バンテージを巻いただけでも拳に掛かる衝撃は素手と比べれば、かなり押さえられることは確かだ。
バンテージを巻く直江の姿を真壁はただ見つめている。
拳を固めるという発想は、真壁にはなかった。いつも素手であり、何も考えずに殴るだけだった。
何度も手の骨を折ったことはある。そのおかげで拳の形は
「なあ、リングを使ってくれよ。リング外でやって、ジムの備品とか壊されても困るからよ」
沖は真壁と直江にいう。
バンテージの準備が終わったのか、直江がロープを潜ってリングの中に入った。
グローブは着けていない。どうやら、バンテージだけでやるつもりのようだ。
バンテージのみで殴り合うというのは、ミャンマーのラウェイという格闘技と一緒だった。ラウェイの試合を見るとわかることだが、勝者も敗者も顔がボコボコになっていることが多い。バンテージのみで殴り合うというのはそれだけ危険なことだった。
「真壁さん、あんたは何もつけなくていいのか」
素手のままリングの中に入ろうとした真壁に沖がいう。
沖の問いに対して、真壁は無言で頷いた。
リングの中というのは、思っていたよりも狭かった。少し下がると背中にロープがある。
「さあ、はじめようか」
沖がそういってゴングを鳴らそうとする。
「おい、試合じゃないんだ。余計なことはしてくれるな」
真壁は沖にそういって、睨みつけた。
その言葉に沖は自嘲気味に笑う。
ふたりがリングの中に立った時点で、勝負ははじまっていた。
あとはどちらかが意識を失うまで、続くだけだ。
直江はバンテージを巻いた拳を握ると、顎の前において構えを取っている。
それに対して、真壁は距離を取るだけで構えようとはしなかった。
ジムの中は、静寂に支配されていた。
さすがの沖も言葉を発さずにリングサイドからふたりの様子を見守っている。
先に仕掛けたのは、直江の方だった。
素早い左ジャブ。
風を切るような音が聞こえた。
真壁は頭を拳一つ分後ろに下げて、そのジャブを避ける。
顔に風圧が来る。
かなりのパンチ力だということは、風圧を感じただけでわかった。
続けざまに直江はジャブを打ってくる。
ステップワーク。
キックボクシング特有の独特なリズムで直江は距離を詰めてくる。
距離を取ろうと真壁が後ろに下がった時、ロープが背中に触れた。
ここは路上ではない。狭いリングの中なのだ。
ストレート。伸びのある、いいパンチだった。
身体を回転させるようにして、真壁は直江の左側に回り込む。
直江の拳が真壁の顔ギリギリのところを通過していく。
パンチは目で追えている。問題はない。
左が前の相手に対しては、相手の左側に回り込む。そうすることで相手の背中側に入るため、相手は攻撃が出来なくなるのだ。
背中側に回られるのを嫌がった直江は、回り込もうとした真壁にローキックを出してきた。
足の甲が軽く真壁の太ももに当たる。
このぐらいの威力であれば、受けても大したことはない。
だが、油断して何発も喰らってしまえばダメージが残ることは間違いなかった。
ローキックに合わせるように真壁は一気に間合いを詰める。
まだ足が戻しきれていない直江は、バランスを崩す。
前蹴り。
それはキックボクシングで使うような、押す前蹴りではなく、空手にあるような足裏の中足部分を突き刺すような前蹴りだった。
真壁の出した前蹴りは、直江の腹に当たったが、直江の鍛え抜かれた腹筋がダメージを大幅にカットした。
「やるじゃねえか」
リング下でふたりの攻防をみていた沖が呟く。
ふたりの間に、距離が開く。
笑っている。お互いに笑っていた。楽しくて仕方がない。言葉を交わさずとも、ふたりはその楽しさを共感していた。
ふたりの距離は、お互いの蹴りがギリギリ届かない距離だった。
どちらかが一歩踏み込めば、攻撃はあたる。
ここは駆け引きだった。
相手の距離に入るか、入らないか。
この駆け引きを間違えた方が、攻撃を喰らう。
先に入った方が有利な場合もあれば、後から入った方が有利な場合もある。
どちらが有利になるかは、戦っている二人にしかわからないことだ。
お互いが自分の距離に相手を誘いこむために罠を張る。
わざと隙を作り、相手の攻撃を誘う。
もちろん、それをのんびりとやっているわけではない。
0コンマ何秒といった世界の話だ。
先に仕掛けたのは直江の方だった。
ローキック。いや、それにしては低かった。狙っている場所は普段ローキックで狙うような太ももではない。
ローキックが来るものだと思って膝をあげて、受けの体勢に入った真壁は自分の失敗に気づいた。
直江の狙いは、太ももではなく
カーフキック。
ここ数年、総合格闘技などでよく使われる蹴り技だった。
カーフ、すなわち脹脛を蹴ることで、相手にダメージを負わせる。
脹脛は太ももほど強い筋肉ではないため、ここを蹴られるとかなりのダメージを負うこととなるのだ。
直江の足先が、真壁の脹脛を蹴りつける。
突き刺すような痛み。それは筋繊維が破壊される痛みだった。
それでも真壁はほんのちょっと受け足を回転させて、脛側で直江のカーフキックを受けていた。
真壁はカーフキックを受けながら前に出ると、直江の顔目掛けて頭突きを喰らわせた。
これは予想外の攻撃だったらしく、直江はまともに真壁の頭を喰らう。
直江が後ろによろける。
おそらく、鼻は潰れた。その証拠に、直江の鼻からは大量の鼻血があふれ出てきていた。
真壁はそこで攻撃をやめなかった。
追いかけるように左の脇腹にフックを入れる。グローブをつけている時と違い、骨と骨がぶつかる感触がはっきりとわかる。
拳を受けた肋骨が軋む。
直江の顔が苦悶に歪む。
続いて、左の肘打ち。肘の骨をぶつけるようにして出す。こちらはムエタイのような相手の皮膚を切る肘打ちではなく、骨をしっかりとぶつける肘打ちだ。
直江がガードを固める。
それでも容赦なく真壁の攻撃は続く。
膝蹴り、ボディアッパー、右フック。
直江のガードの隙間を狙って真壁は次々と攻撃を繰り出していく。
一瞬、電気が走ったような感覚に襲われた。
真壁は攻撃する手を止めて、慌ててステップバックする。
大ぶりのパンチ。
直江の拳が真壁の顔のすぐ脇を通過する。
もしも、攻め続けていたら、このパンチを喰らっていただろう。
これを喰らえば、一発で倒されていたに違いない。
それだけの威力があるパンチだった。
「さすがは直江だ。パンチ一発で攻撃を止めちまいやがった」
リング下の沖も驚きを隠せないといった様子で呟いている。
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