第10話 逃げた男(3)

 まだ日も昇らぬ早朝、真壁は直江のアパートの前にいた。


 キックボクサーは走ることで体力と脚力を鍛えている。

 特に直江クラスの選手となれば、毎日ランニングをするはずだ。

 しかし、現在の直江の状況を考えれば、ひと目につきたくないはずだ。そうなれば、早朝か深夜に出るだろう。

 昨晩は沖が遅くに訪問したため、直江は深夜にランニングは出来なかった。

 そのため、ランニングをするとしたら早朝に行うだろうと、真壁は予測していた。


 しばらく待っていると、直江の部屋で動きがあった。

 ドアが開き、パーカーのフードを被った背の高い男が現れた。

 下半身はジョガーパンツにスニーカー。足の筋肉を見ても、ひと目で鍛えている人間のものだとわかるほどに筋肉は発達していた。


 どうやら、真壁の予想は当たったようだ。


 直江と思わしき男は、ゆっくりとしたペースで走り出すと、近所にあるスポーツセンターのグランドを周回しはじめた。

 どのくらい走るのかはわからなかった。ある程度身体が温まったところでやめるのか、それとも疲れるまで走るのか。それは真壁にも予想はできなかった。


 結局、男は30分程度走り続けた。距離にすれば5キロぐらいは走ったのではないだろうか。見た感じ、疲れている様子はない。


 身体も十分に温まったはずだ。そろそろ、いいだろう。

 真壁はゆっくりとした足取りで、男へと近づいていった。


「あんた、直江さんだろ」

 声をかけると、男は被っていたパーカーのフードを取って、こちらを見た。

 その顔は間違いなく、真壁の知る直江という男だった。


 しかし、直江は真壁の問いに応えることなく、じっと真壁のことを見るだけだった。


「どうして、声を掛けられたかは、わかっているよな」

「そうだな。おれのファンではなさそうだ」

 笑いながら直江はいうと、それと同時に真壁の顔目掛けて左ジャブを放ってきた。


 速いジャブだった。

 見えていたわけではない。

 ただ、何か予感というか、起こりというか、そのようなものを感じ取って真壁は、身体を少しだけずらしていた。


 直江の拳は空を切っていた。


「へえ、やるね」

 また直江は笑う。


 真壁は少しだけ身体を下げて、直江との距離を取った。

 この距離であれば、お互いの拳は届かない。


「まさか、先に仕掛けられるとは思わなかったな」

「いや、そっちの方が先に仕掛けていたさ。あんたからは怖いぐらいに殺気が出ていたよ。だから、ついついジャブを打っちまった」

「笑わせるな。最初から、あんたはやるつもりだったんだろ、直江」

「怖いな。沖の言っていた通りだ」

 直江はにやりと笑ってみせる。


「だったら、話しが早い。さっさと、蹴りを着けよう」

「待てよ。俺も一応は、プロなんだ。こんなところで殴り合いをしていたことがバレれば、ライセンスをはく奪されちまう」

「八百長をやっている奴が、いまさら何を言っているんだ」

 真壁の言葉に直江は表情を変えなかった。

 それは、八百長をやっていると認めたようなものだった。


「ジムへ行こう。さすがにこの時間ならだれもいない。そこで相手してやるよ」

「いいだろう」

 真壁は、直江の言葉を信じた。


 構えを解いたふたりは、並ぶようにしてジムまでの道のりを歩いた。

 ジムまでの道のりは、ふたりとも無言だった。

 しかし、緊迫した空気はない。

 長年連れ添った友のような感覚がふたりの間にはあった。


 ジムのドアを開けて中に入ると、電気が点いていた。

 話が違うじゃないか。

 真壁はそう、抗議をしようと直江の顔を見たが、直江も予想外のことだったらしく、驚いていた。


「おいおい、俺に内緒でふたりで始めようっていうのは無しだぜ」

 ジムの奥からスキンヘッドの男が出てきた。トレーナーの沖だった。


 邪魔が入った。

 そう思った真壁は、沖のことを睨みつけた。


「そんな怖い顔をしなくても、邪魔はしない。俺はお前たちが戦うのを見届けるために来たんだよ」

 沖はそういうと、リングサイドにパイプ椅子を持ってきて、腰をおろした。

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