第9話 逃げた男(2)

 カウンター席でふたり並びながら瓶ビールで乾杯をした。


「俺は沖っていう。あのジムのトレーナーだ。あんたは?」

「真壁だ」

 それだけ答えると、真壁はコップの中のビールを飲み干した。

 沖はビール瓶を傾けると、真壁のコップにビールを注ぎ入れる。


「いい飲みっぷりだな。あんた、格闘技経験あるだろ」

 沖が真壁の拳を見ながらいう。


 真壁の拳には、人や物を殴っていると拳に出来ると呼ばれる皮膚が硬くなった状態のものが存在していた。

 大抵、打撃系格闘技をやっている人間であれば、普通の人よりも拳が大きくなっていたりするのでわかるのだ。


 真壁は沖の問いに対して、なにも答えなかった。


 格闘技はやったことはなかった。

 ただ、仕事として人を殴ることがあるだけだ。

 そう説明したところで何も変わらない。

 そう思った真壁は無言を貫いた。


「俺だって元はプロだったんだ。新人王にはなれたが、そこがピークだった。だけどよ、俺は選手としてよりもトレーナーとしての才能があったんだ。何人もチャンピオンを育てたぜ。直江だって、俺がチャンピオンにしたようなもんだ」

「なるほどね。あんたが指示役だったってわけか」

「それはどういう意味だ?」

「やっていたんだろ、直江は」

「…………」

 今度は沖が黙る番だった。


 真壁が口にしたのは、直江の八百長のことだった。

 八百長というのは、二種類存在する。両者が示し合わせて行う八百長と、片方だけがわかっていておこなう片八百長と呼ばれるものだ。


 直江がおこなっているのは、片八百長だった。

 先日、テレビ放送されていた試合でも、直江が片八百長をやったことに真壁は気がついていた。


「あんなにあからさまにやったんじゃ、見る人間が見ればわかることだ」

 沖は押し黙ったままだった。


 ふたりともコップの中身が空になっていた。

 真壁は店員を呼び止め、冷酒を2杯、コップで注文した。


「それでやくざ者に追われたのか、直江は」

「それはちょっと違うな」

 片八百長については口を開かなかった沖だったが、やくざ者に追われていることについては徐々にだが話しはじめた。


「あいつは、とんでもない女に手を出しちまったんだよ」

「どんな女だよ」

「ヤクザの女だ。それも正妻。極道の妻ってやつだ」

「そんなことで追い込みを掛けられているのか、あいつは」

 真壁は鼻で笑った。それだけのことで、斎藤が自分に依頼をしてくるとは思えなかった。


「いや、それだけじゃない。そのことがあってから、試合操作をするようになったことは確かだ。元はといえば、プロモーターの荻原っていうやつが悪いんだよ。ヤクザの女房が直江のファンだって紹介したのも荻原だし、八百長の話を持ってきたのも荻原だ」

「なるほど」

 すべての黒幕は荻原という男だったのかと、真壁は理解した。

 ヤクザの女房を直江に抱かせて、逃げられないようにしてから、八百長の話を持ち掛ける。典型的な美人局のやり方だった。


「それで、直江はどこに隠れているんだ」

「真壁さん、あんたもしつこいな。俺は本当に知らないんだって」

 そういって、沖はコップに注がれていた日本酒を飲み干した。


 その日は、そこでお開きにした。

 大した金額ではなかったが、約束通り、支払いは全部真壁がおこなった。


「すまないな、力になれなくてよ」

 沖はそう言うと、駅の方へと歩いて行った。


 これはひとつの賭けだった。

 沖はこの後、直江のところへ行く。真壁はそう考えていた。


 自分が現れたことを直江に報告しに行くに違いないと。

 酔っているようには見えなかった。

 沖はしっかりとした足取りで駅まで向かうと、改札には向かわず、ガードを潜り抜けて反対側へと抜けていった。


 その様子を真壁は少し離れた場所から見届けていた。

 尾行はあまり得意ではないが、出来ないことはないと思っていた。

 多少、酒が入っているが、問題はなかった。


 沖が向かった先は、一軒のアパートだった。

 築30年は経っていそうな、お世辞にもきれいとはいえない建物だった。


 沖はそのアパートの鉄階段を上り、二階の一番奥の部屋の呼び鈴を押す。

 もし、そこが沖の自宅であれば、呼び鈴など押す必要はないだろう。

 ただ鍵を開ければいいだけだ。


 しばらくすると、ドアが少しだけ開いた。

 顔は見えなかったが、ドアの隙間から出てきた手を見て、真壁はそれが直江であると判断した。

 その手は大きく、そして拳ダコがあったのだ。


 今夜、直江があのアパートから逃げ出すということはないだろう。

 そう判断した真壁は、しっかりとアパートの場所を記憶して、その日は引き上げた。

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