第5話 キックボクサー(3)

 眩い光に照らされた。

 もう少し眠っていたいという気持ちがあったが、直江は思い切って目を開けることにした。


 一番最初に視界へ飛び込んできたのは、鬼の形相でマットを叩くセコンドたちの姿だった。


 テレビで音量を消してしまった時の様に、まったく声は聞こえてこない。

 声どころか、世界中の音が消えてしまったかのように静かだった。


 足に力を入れようとしたが、腰から下が無くなってしまったかのように感覚がなかった。それでも立たなければならないという気持ちがあり、直江はロープへしがみ付くようにしながら何とか立ち上がった。


 目の前にはレフリーがいた。

 何かを問い掛けて来ているようだったが、世界の音は消えたままだったので、直江は適当に頷きファイティングポーズを取った。


 レフリーが視界から消え、再び青年が目の前に現れた。

 ようやく、ここで自分がリングの上に立って試合をしているのだという事を、直江は思い出した。

 そして、その事を思い出した瞬間、世界に音が帰って来た。


 音が戻ってきた事で、直江の記憶はようやく繋がった。

 青年のフックを食らってみたのだ。

 そして、それが想像以上の威力だった為に、直江はダウンした。

 何とか立つことが出来たが、もう少しで危ないところだったはずだ。


 まだ、直江の意識がまどろんでいるうちに、ゴングが打ち鳴らされた。

 気を失っていた事もあったせいか、前のラウンドに比べて、今回の三分間は短く感じられた。


 コーナーに戻ると、沖が剣幕を浮かべて、直江の事を怒鳴り散らした。


「どうして、あんな事したんだ。あれだけのパンチを食らえば、ダウンする事ぐらいわかるだろうがよ。お前は、馬鹿か」

 沖はひとしきり怒鳴り散らした後、その怒りを静めて直江の耳元で囁いた。

「このラウンドだ。このラウンドで終わらせろ」

 その言葉に直江は無言で頷くと、マウスピースを受け取りリングの中央へと向かった。


 レフリーを間に挟み、再び青年と向かい合う。

 青年の脇腹の色が変化し始めていた。やはり、折れたのだろう。早めに病院へ行って手当てを受けなければ面倒な事になる。

 そのためにも、このラウンドで試合を終わらせる必要があった。


 ラウンド開始のゴングと同時に、直江は一気に攻め込んだ。

 素早いジャブとローキックで青年を攻め立てる。


 青年は体力が限界に近いのか、ローキックを捌く事ができずに、全て太腿へと食らっていた。


 直江のローキックが三発当たるうちに、青年が返してきたパンチはたった一発だけであった。

 しかも、そのパンチはローキックで足を殺されてしまっている為に、弱々しいものだった。


 このまま行けば、直江の勝ちは目に見えている。

 このラウンドで終わりにしよう。

 直江は一瞬、ガードを解くと、腰を回転させ、右足を大きく上段へと蹴り込んだ。


 ハイキック。

 そう呼ばれる上段廻し蹴りだ。


 しかし、そのハイキックが青年に当たる事は無かった。

 直江のハイキックが当たるよりも先に、青年の左ストレートが俺の顎を捕らえていた。


 直江はバランスを崩し、そのままリングの上に大の字で寝そべる恰好となった。


 リングの上にある、ライトが眩しかった。

 いつの日から、こんな試合をするようになってしまったのだろうか。

 そんな事を考えながら、直江はライトの光を見つめていた。


 カウントが8まで来た時、直江は立つ素振りを見せた。

 だが、足に力が入らなくて立てないという演技をする。


 カウントが10まで行き、ゴングが激しく打ち鳴らされた。

 青年は目に涙を浮かべて、歓喜の表情でコーナーへと駆け上って行った。


 これでよかったのだ。

 リングに入ってきた沖に肩を借りながら、直江はリングを後にした。


 もちろん、自分の足で歩く事は可能だった。

 だが、演出としてこのぐらいの事はやっておくべきだろうと思い、観客たちにサービスしてやったのだ。


 控え室に戻ると、プロモーターの荻原が待っていた。

 脂ぎった顔の太った中年男だ。


 荻原は俺に労いの言葉を掛け、スポーツドリンクを差し出してきた。


「そんなものいらねえよ、荻原さん」

「機嫌悪くしないでくれよ」

 荻原は猫なで声で言うとセカンドバックから茶封筒を取り出して、直江に手渡した。封筒の中身は、ファイトマネーとは別に支払われる20万が入っているはずだ。


「次もまた頼むよ、直江ちゃん。うちも、あんたみたいな選手がいるからこそ、やっていけるんだからさ」

 直江は無言で荻原から金を受け取ると、その金を沖に預け、シャワー室へと向かった。

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