第4話 キックボクサー(2)
タイ人のセコンドが、水で濡らしたマウスピースを直江の口に押し込んでくる。
インターバルの時間はもう終わりだ。
セコンドに早くリングから出て行くようレフリーから指示が出る。
ゴングが鳴った。第三ラウンドの始まりだ。
リングの中央まで出て行くと、青年が左の拳を直江の方へと突き出してきた。
先程、自分のやった行為に対する詫びのつもりであろう。
直江はその青年が差し出してきた拳に合わせるかのように右拳を突き出すと、軌道を変えて、そのまま青年の顎へ右拳を叩き付けてやった。
おかしなフォームでのパンチだった為に威力はなかったが、青年の不意をつくことは出来た。
驚いた表情を作った青年は、一歩後ろに飛びのくと、鋭い視線をこちらへと向けてきた。
場内からは、直江の行為に対するブーイングが投げつけられる。
やはり、悪役はこうでなくてはならない。
そんな事を思いながら、直江は青年との距離をじわじわと詰めて行った。
青年の瞳には、直江の非紳士的行為に対する怒りが満ち溢れていた。
若いうちは、感情的なファイトをした方がいい。
怒りをパワーにし、負けたくないという気持ちを前面に出して戦う。
最近はそういった若い選手が、少なくなってきている。
みんなクールに戦いたがる。戦っている時もクールであった方が、恰好が良いと勘違いしているからだ。
リングにファッションを持ち込むな。
本能で戦え。
余計な物は全て捨てて、感情の赴くままに戦い続けろ。
それが本当の戦いってものだ。
怒りのせいか、青年の攻撃は雑になっていた。
届かない距離からのロングフックや大振りのパンチ。
感情的なファイトをするのもいいが、その感情に捕らわれすぎてはいけない。
熱くなりながらも、どこかで冷静な自分がいて計算をしながら戦っていなければ、勝ち星には恵まれない。
それは直江が長年、このリングの上で学んできた事だった。
青年の出してきた大振りなフックを軽く避けると、直江は青年のボディーにショートアッパーを打ち込んでやった。
グローブと皮膚がぶつかる激しい音が場内に響き渡り、青年の割れた腹筋が振動する。
アッパーが入った瞬間、青年の表情が微かに歪んだのを直江は見逃さなかった。
クリンチ状態になる前に、直江は青年との距離を置いた。
先程のショートアッパーで青年はようやく冷静さを取り戻したのか、慎重な構えを見せている。
直江と青年との実力差は明らかにあった。
青年は、いま爆発的人気がある格闘家の一人で、昨今の格闘技ブームの火付け役ともいえる存在だと、プロモーターである荻原から聞いていた。
甘いマスクのキックボクサー。
それだけでテレビ番組やマスコミは食いついて来た。
あとは実力をつけさせてチャンピオンにするだけだ。
だが、現実はそんなに上手くはいかない。
無造作に青年が踏み込んできたので、直江はミドルキックを青年の脇腹に打ち込んでやった。
妙な感触が脛に伝わってくる。肋骨の一本は折れただろう。
それを証拠に、青年の顔が今までにない歪みを見せ、膝をマットに着いた。
まだチャンピオンに挑むには、早すぎる。
直江は、プロモーターの荻原にそう忠告したつもりだった。
だが、荻原はチャンピオンとの前哨戦として直江と青年の試合を組んでしまった。
試合を組まれたからにはやるしかなかった。
直江はこのリングで飯を食っていっている。試合を組まれたからにはやらねば、お飯を食いっぱぐれることとなってしまうのだから。
カウントは七まで数えられていた。
青年は何とかロープに掴まりながら立ち上がると、ファイティングポーズを取ってみせた。
なかなかガッツのある奴だ。
直江はそう思いながら、前に出た。
青年はミドルキックを警戒しているのか、直江が前に出ると後ろへと下がって間合いを狭めようとはしてこなかった。。
このまま行けば、このラウンドは直江が取ったも同然である。
だが、そんなつまらない試合を直江はやるつもりはなかった。
直江は両腕をだらりと下げてガードを解くと、青年の事を挑発した。
打てるものなら、打ってみやがれ。舌を出して、憎たらしい表情を作ってやる。
直江の取った行動に、観客は沸いた。
ブーイングと声援が入り交じってリングへと飛んでくる。
もちろん、ブーイングは直江に対してであり、声援は青年に対してのものだった。
舐められているということがわかって頭に来たのか、青年はストレートパンチをがら空きになった直江の顔面目掛けて打ち込んできた。
直江はステップを踏んでそのパンチを避けると、青年の目の前に顔を突き出してやる。直江の取った態度は、青年を完全に馬鹿にしたものだった。
青年の怒りは、頂点に達していた。この野郎とも、馬鹿野郎とも聞こえる叫び声と共に、青年は渾身の右フックを繰り出してきた。
右フックが来ることはわかっていた。
なぜなら、青年は前試合も、その前々回の試合も、右フックでKO勝ちを収めていたからだ。おそらく、右フックが得意なのだろう。
直江はその右フックをあえて避けなかった。
どの程度の威力があるのかという興味もあったし、ここら辺で一発食らっておかなければ、荻原に何を言われるかわかったもんじゃないと思ったからだ。
グローブが左頬に当たる寸前まで、直江は青年の目を見つめていた。
怒りという感情が剥き出しになったその目は、殺意さえ感じさせるものがあった。
荻原の言っていたように、磨けばチャンピオンにもなれる目をしていた。
そして、世界が暗転した。
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