第3話 キックボクサー(1)
気が付くと肩で息をしていた。
口の中には錆びた鉄のような味が広がっている。血の味だ。
四角いマットの中央。晧々と照らすスポットライトの中に、直江は立っていた。
耳元で心臓の音が囁くように鳴っている。
息が苦しい。鼻にパンチを貰ったせいで、呼吸が上手く出来なくなっていた。
まだ終わらないのか。そんな事を思いながら、直江は目の前にいる男の出方を
目の前にいる若い男。年齢は直江よりも十歳は若く、青年と呼ぶに相応しい爽やかな顔立ちをしている。何よりも、綺麗な目をしていた。まだ世の中の酸いも甘いも知らない、澄んだ瞳だ。
10年前の直江も、同じような瞳をしていた。夢や希望を持ち、諦めという言葉を知らない瞳。いま、目の前にいる青年の事を見つめている、曇ったガラス球のような目玉とは大違いだった。
甲高い音が場内に鳴り響いた。2ラウンド終了のゴング。
それと同時に、溜め息に似た歓声が場内を包み込む。
場内から聞こえてくる歓声は、男の声ばかりではなく、女性客からの黄色い声援も少なくはなかった。
もちろん、その声援は直江に対してのものではなく、直江の対戦相手である青年への歓声である事だけは間違いない。
最近は、男性客ばかりではなく、女性の客も増えつつあった。少し前までは、コワモテの連中が陣取っていたリングサイドにも、最近では女性客の姿も目立ってきている。
また、テレビ放送がある時などは、意味もなくドレスで着飾ったテレビタレントたちが放送用の中継席に座っていることもあり、リングの中で行なわれている行為を、どこかショーとして売り出そうとしている気配を感じ取れることもあった。
直江は肩の高さまで上げていた拳を下げ、ファイティングポーズを取るのをやめると、前を向いたままゆっくりと一歩後ろに下がろうとした。
一瞬ではあったが、直江は気を抜いていた。
気が付いた時には、視界に赤い色の物体が飛び込んできていた。
避けろと脳が判断を下したが、直江の体が反応するよりも前に目の前が真っ白になっていた。
膝に力が入らなくなり、立ったまま居眠りをしている時の様に、足が重力に逆らえなくなる。
体が前のめりに倒れようとしたところで、レフリーが直江の体を支えた。
直江はどうにか足を踏ん張り、自分の力で立ち直った。
前を見ると、興奮した表情の青年がいた。澄んだ瞳は血走っており、まだ殴り足りなさそうな顔をしていた。
青年はレフリーに体を押さえつけられながらも、直江の事を睨みつけている。
ゴングが鳴った後の攻撃だったことから、青年には警告が与えられた。
もし、勝負が判定にもつれ込む事があれば、このラウンドの判定は直江に有利となるはずだ。
おそらく、ゴングの音は青年の耳には届いていなかったのだろう。あの興奮をした顔つきを見れば、すぐにわかる事だった。
自陣のコーナーへ戻り、セコンドが置いた椅子に直江は腰をおろした。
マウスピースを吐き出し、セコンドから水を口に入れてもらう。軽く口をゆすぎ、血の混じった水を吐き出す。水がしみた。少しだが口の中が切れているようだ。
耳元で、男が何かを言っている。セコンドの指示。セコンドは決して、自分に対して不利なことは言わない。どんなに攻め込まれていても、絶対に諦めろとは言わない。中には、奮い立て、獣になれ、などといった言葉を掛けてくるセコンドもいる。だが、直江のセコンドは違っていた。
「まだだぞ。まだだからな」
セコンドであるトレーナーの沖が、直江の耳元で囁くように言った。
沖以外のセコンドは、外国人であり日本語を理解する事が出来ないため、沖が何を言っているのかは、理解をすることが出来てはいない。
直江は沖の言葉に無言で頷いた。
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