第2話 訪問者

 女を助けてから5年後のある日――。



 玄関の呼び鈴が鳴ったのは午前0時を過ぎた頃だった。


「はい?」

 真壁がドアを開けると、そこには髪の長いワンピースを着た女と5歳ぐらいの男の子が立っていた。


「誰だい、おたくら」

 見覚えのない来訪者に警戒心を抱きながら真壁は尋ねた。

 こんな時間に、女と子供の来訪を受けるような覚えはない。


「あなたが……」

「はい?」

 女が呟くような小声で何かを言ったが、真壁にはその言葉がうまく聞き取れなかった。


「あなたが邪魔をするから、この子が生まれちゃったんじゃない。責任とりなさいよ」

 突然、女は持っていた紙袋の中から出刃包丁を取り出して、真壁の腹を目がけて突きだしてきた。


 真壁は身体をはすにずらして、その包丁を寸でのところで避けた。


 女の顔に視線を向けると、そこには狂気が宿っていた。

 女の手が引いた。そして、再び包丁が突き出される。


 今度は避けなかった。

 女が包丁を突き出すよりも先に、真壁の掌が女の手を叩いていた。


 女の手から包丁がこぼれ落ちる。


 真壁は、その包丁を女の手の届かないところへと蹴り飛ばした。

 包丁が落ちたことで気づいたのだが、女は裸足だった。


 真壁は女の手を掴み「いったい何の真似だ」と問いただした。

 やせ細った女の腕には、何本もの横に伸びた傷痕が残っていた。おそらく、自分で傷つけたのだろう。


「離せ、この×○☆△@が!」

 意味不明な言葉を叫ぶと、女は真壁の腕に噛み付こうとしてきた。


 女が噛みついてくるよりも先に、真壁は掴んでいた女の腕を離し、空いた右手で女の頬を殴りつけた。


 そんなに力を込めたつもりはなかったが、女の身体は宙に浮き、そして床へと叩きつけられた。


 女の憎悪が込められた瞳がじっと真壁を睨みつける。


 女は背にした柵に掴まって立ち上がろうとしたが、それよりも先に真壁が動いていた。

 真壁は立ち上がろうとしていた女の手を払うと、再び地面に倒れさせ、女の首の辺りを踏みつけて女の動きを封じた。


「抵抗をするな。少しでも動けば足に体重をかけて、喉を潰すぞ」

 真壁は女のことを見下ろしながら言った。


 女の顔をきちんと見たのはその時が初めてだった。

 化粧を施していない青白い顔。赤く充血した瞳。殴られた衝撃で切れたため鮮血の滴る赤い唇。その唇は大きく歪み、女は笑っていた。


 真壁は女に注意しながらも、傍らにたたずんでいる子供の方へと視線を向けた。

 濃い灰色のTシャツに半ズボン。見る限りではごく普通の男の子だった。


「おい、お前の母親か」

 真壁の問いかけに男の子は無言でうなずいた。


「5年前に、あなたが邪魔しなければ一緒に幸せになれたはずの子よ」

 女が笑いながら言う。


「5年前……」

 真壁は女が何者であるかを知った。

 5年前、海で入水自殺をしようとしていたところを止めた女だ。


「まさか、あのときのことを恨んで?」

「当たり前じゃない。この5年間、あなたのことばかりを考えていたわ。私の幸せを壊したあなたを殺そうと」

「残念だったな、俺を殺せなくて」

「あなたを殺せないってことは最初からわかっていたわ。5年間、あなたのことを探して、調べていたから」

「それは御苦労だったな」

 真壁は笑いながら女の首から足を離して、女を解放してやった。

 もう女が襲いかかってくることはないだろう。そんな風に思えたからだ。


「でも目的は果たしたわ」

「目的?」

「この子にあなたの顔を見せることができたから」

「それは、どういう意味だ」


「それじゃ、さよなら」

 女はそういうと柵をふわりと乗り越えた。


 真壁の部屋はマンションの四階だ。


「おいっ!」

 真壁は手を伸ばしたが、女に触れることはできなかった。


 マンションに物を詰め込んだ段ボール箱を落としたようなドスンという音が響いた。

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