episode.3 遺恨

第1話 秋の海

 夜空には月の姿はなかった。新月である。


 人気ひとけのない砂浜に真壁の姿はあった。

 防波堤の向こう側にある道路の明かりだけが、真壁の姿を闇の中に浮かび上がらせている。

 一見すると、踊っているかのように見える。

 しかし、それは見る人がいれば、それが踊りではないとわかるものだった。


 かただ。


 空手か拳法か。おそらく、そういった類の武術の形なのだろう。

 まるでロウソクの炎がゆれ動くかのように、真壁の身体は闇の中で動いていた。


 どのくらい時間が経ったのだろう。

 ゆっくりと真壁が動きを止めた。


 動から静へ。


 聴こえてくるのは、波の音だけだった。

 息吹。鼻から吸い込んだ冷たい空気を腹式呼吸で口から吐き出す。

 それを十数回繰り返しているうちに、真壁の呼吸は整った。


 全身が汗で濡れており、身体からは湯気が立ち上っていた。


 少し離れたところにある大きな岩の上に置いたデイバッグから、タオルと着替えのシャツを取り出すと、シャツを脱いで汗を拭った。

 無駄のない肉体だった。鍛え上げられた筋肉の上に、薄っすらと脂肪が乗っている。

 脇腹や背中には、皮膚の内側をミミズが這っているかのような傷痕が残っていた。刃物でつけられたもののようだが、もう何年も前の古傷のようだ。


 着替えを済ませた真壁は堤防に上がると、砂を払ってからランニングシューズへ足を通した。


 時刻は、午前4時。まだ、街は眠っている時間だ。

 ただ、少し先にある漁港は活動をはじめたらしく、何隻かの船が出港していく様子が見られた。


 持参した水筒に入れた飲料水で喉を潤し、軽くストレッチをしてから、ゆっくりとしたスピードで真壁は走りはじめた。


 これから二時間掛けて、自宅まで戻る。

 自宅のある街につく頃には、日も昇っているだろう。


 走りはじめて5分も経たないうちに、真壁の身体からは汗が吹き出しはじめていた。

 先ほど着替えたばかりのシャツにはすでに汗による染みが広がってきている。


 しかし、真壁の顔には苦痛はなかった。

 無表情のまま、一定のリズムで呼吸を繰り返し、乱れることはない。


 不意に、真壁は足を止めた。

 少し離れた場所に人影を見たからだった。


 暗闇に包まれている波打ち際をゆっくりと歩く人影。

 髪の長い女のようだ。


 こんな時間に何をしているのだろうか。

 その疑問が頭を過るよりも前に、真壁は防波堤を乗り越えて、砂浜に飛び降りていた。


 女はゆっくりとした足取りで、海の中へと入っていった。

 すでに膝のあたりまで、波が来ている。


 それでも女は足を止めなかった。

 何かに取り憑かれたかのように、女は沖へ向かって進み続ける。


 真壁は走り出していた。砂が足に絡みつき、走る速度を遅らせる。


「おい、やめろっ!」

 真壁は叫んでいた。


 しかし、女は振り返ること無く、沖に向かっていく。

 海水は女の腰のあたりまで来ていた。


 その時、高波が女のことを飲み込んだ。

 女の姿が真壁の視界から消える。


 自分が濡れることも構わず、真壁は海の中へと飛び込んでいった。


 季節は秋である。

 明け方の海水の冷たさは、体の芯まで凍えさせるほどだ。


 泳ぎは達者な方だった。

 しかし、海水の冷たさと着衣で泳いでいるということが、真壁の泳ぎを邪魔していた。


 時おり、女の頭が海面に浮かんできた。

 まだそれほど深い場所へは行っていないはずだ。


 真壁は懸命に泳ぎ続けた。


 女に追いついた時、真壁は女の体を抱き止めた。

 すでに女の意識は無かった。


 波に揉まれながら、真壁は冷たくなった女の体を抱いて、岸に向かって泳ぎ続けた。


 体力はかなり消費していた。

 時おりやって来る高波に飲み込まれそうになりながらも、真壁は懸命に泳ぎ続けた。

 膝をついても顔に波がかからない程度の浅瀬についた時には、息をするのもやっとなぐらいに体力は無くなっていた。

 震える身体で真壁は力を振り絞り、女のことを海から引きずり出した。


 運が良かったのは、ちょうど漁師たちが通りかかったということだろう。

 漁師たちは真壁と女を近くにある作業小屋へと連れ込み、薪を集めて火を焚き、毛布を掛けて暖を取らせた。


 女は意識こそ無かったものの、弱々しくだが、呼吸をしていた。


 熱いお湯で割った焼酎をもらい、真壁は体を内側から温めていった。

 そうこうしているうちに、近くの駐在所から警察官が駆けつけてきて、漁師に叩き起こされた町医者も作業小屋へとやってきた。


 真壁は自分の見たものをすべて警察官に説明した。

 警察官は真壁とは顔見知りの人間であったため、余計な質問は何もされなかった。


 女はこの町の人間ではなかったが、漁師の中に女のことを知っている人間がいた。

 少し離れたところにある街のスナックで働いている女だった。


 聴診器を当てていた医者がおもむろに口を開いた。

 女の腹の中にはこどもがいる、と。 


 それを聞いた時、なぜ女が入水自殺などをしようとしたのかわかったような気がした。

 おそらく、腹の中のこどものことが原因なのだろう。

 だが、その自殺は未遂に終わり、女も腹の中の子も生き残った。


 それが20年前のことだった――――。

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