第68話
「リーチェ」
手を掴まれた上に引っ張られ、レオンの顔がグンと近くなる。
「こんな絵よりも、本物と一緒にいたいとは思わないのですか?」
目と鼻の距離で声のボリュームをグンと落とし、囁くように言う彼は……ズルい。顔がほてっていくのを感じて、空いた片手で顔を隠そうとするのに、レオンがそれを防ぐ。両手とも掴まれてしまった。
「か、顔の良い男性と一緒にいると、鼻血が出るんです。ご存知ですよね? だからこの手を離してください」
「出しても構いません。顔を隠されるよりもマシです」
「私が嫌なのです。なのでこうしてその絵を見て、鼻血を出さないように訓練していたのですよ」
タネ明かしをする自分がなんとも滑稽に思えてならないけど、ここは素直に言ったほうが、誤解がなくていい。そう思って絵を描いた理由を言ったのに、レオンはやっぱり納得していない様子だ。
「なおさら、私と一緒にいた方がいいとは思わないのですか? こんな風に絵を見つめるよりももっと効率的で、合理的です」
いや、効果が絶大すぎて私には不合理的です。
「……それともなんですか。リーチェは他の男性に近づくために、私の絵で慣らしておこうとしていらっしゃったのですか?」
突然引き上がった目尻を向けられ、さすがの私も理不尽と思わざる負えない。
いくら推しの言葉だとしても、私の努力をあらぬ方向にねじ伏せられるのだけは、受け入れられない。
「なぜそのような発想に至るのかが分かりません」
「ではリーチェ、あなたが私のことをどう思っているのか、教えてくださいませんか?」
両手を掴まれ、至近距離。麗しい顔が間近にある。その顔に凄まれていたとしても、私の心臓はどうしたってバクバクと脈を早めてしまう。
「それは……」
「リーチェ、あなたが私を好きではないと言うのなら、やはり私はあなたには他に好きな人がいて、その人のために私を利用しようとしているように思うしかありません」
なぜそんな風に思うのか。なぜそんな風に言われないといけないのか。
至近距離で香る、レオンの香り。甘いようでスッとした爽やかさも感じる香り。
けれどそれはーーあの、私が作った媚薬香水とは違うもの。
「そのセリフはあなたにお返しします、侯爵様」
「リーチェ、また私の名をお忘れですか?」
ため息をこぼした彼を見て、ギュッと心臓が縮み上がる。けれど私はそんなレオンをまっすぐ見つめて、挑むようにこう言った。
「侯爵様。あなたこそ本当は、マリー様をお慕いしていらしゃいますよね?」
レオンは驚いたように、目のサイズを二倍にまで引き上げた。
なんて表情を見せるのか。私が全くなんにも気づいていないと、本当に思っていたの?
冷や水をかけられたように、高まっていた熱がスッと下がった気がした。
「慕う? 私が、クレイマス令嬢を?」
レオンはそう言った後、考え込むように顔を背けた。私とレオンを繋いでいた片手を離し、口元を抑えながら。
……なに? 無自覚だったってこと?
ズキリと胸の奥が軋む。私は彼にきっかけを与えたのだろうか。そう思ったところで、首を振ってその考えを押し戻す。
彼が無自覚だったとしても、私が気づくきっかけを与えたとしても。結局結果は同じだ。それが先延ばしになるか、早まるかだけの違いだろう。
「自覚がなかったのですね。あなたがマリー様と初めて会った時、恋をした顔をしていました」
恋に落ちた時の人の顔を、私は一番よく知っている。その表情は私が魂込めて描いたものだ。命を削るようにして注ぎ込んだ、表情だ。
そしてそれはレオンだけじゃない。レオンの表情に呼応するように、マリーゴールドも同じような表情を見せていた。
私が設定した通りに。そして、私が描いた通りに。
「私は言いましたよね? 六ヶ月。もし侯爵様の気持ちが変わらなければ、侯爵様の勝ち。けれどその期間中に侯爵様の気持ちが誰かに移れば、私の勝ちだと」
当たり前のように賭けに勝つことしか想像できなかったけれど、正直、レオンが賭けに勝ってくれたらどんなに良いかと思っていた。
レオンが勝つなんてこと、万に一つもなくて、想像すらできなかったくせに。
「賭けの期間を設けはしましたが、あくまで目安でした。侯爵様が運命の相手と出会った地点で、いつでも賭けを終わらせることはできるんです」
だから……。
「終わりにしましょう侯爵様。賭けは私の勝ちです」
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