第66話

 あんの、クズ男……自分の描いた漫画のキャラは我が子のようだとよく漫画家仲間は言っていたけれど、あいつは違う。あいつは他人だ。他人どころか敵。いいや、この創造主でもある私の敵であるのであれば、やつは神を冒涜する世界の敵である。


 こちとら前世じゃ、そこそこのもやし生活をしてたんだぞ! 痛みにだってめっぽう弱いんだぞ! 日中夜関係なく机にかじりついて漫画描いてたんだ! 机の角で足打っただけでも涙流すくらい痛みに弱いっていうのに、あのゲス野郎は過去含め何度も私を殴って……って、思い出しただけでもはらわたが煮え繰り返る! 


 もっと唾かけてやればよかった! いいや、あいつのケツの穴から指突っ込んで、奥歯ガタガタいわせてやればよかった!

 そんなのどうやったらできるのか分かんないけど! 想像しただけで汚すぎて、本当にできる気なんてしないけど!


 …………でも、ま。

 これで今世では少し、徳を積めたのではないだろうか。なにせ男主人公を庇って、怪我をして、そして死んだんだから。

 前世のように吐き散らかして頭打って死んだのとは大違いなんだから。


 どうせ死なないといけなかったのなら、どれだけ来世に向けて徳を積んだ死に方ができるかが重要だった。何せ私には徳がない。むしろ多分、マイナスだ。

 だから今世はモブ令嬢で、奥歯ギリギリさせながら好きな人の恋を後押ししなくちゃいけなかったんだ。

 たとえ相手が、推しキャラ同士だったとしても。歯軋りしてしまう気持ちは隠せない。

 いい感じだと勘違いさせておいて、運命はあっさり私に背中を見せた。

 きっとそれもこれも、私に徳が無いせい。そうとでも思わないと、やってらんない。


 だから来世はどうか、幸せが舞い込みますように。

 またどこかの世界のモブキャラでもいい。たとえお金がなくてもいい。

 今度こそ自分の思いを素直に表現できて、好きな人に好きだと伝えることができますように。


 そんなささやかな願いを叶える程度には私、今世を頑張りましたよね?

 もしもこの世に神がいるのだとすれば。

 もしもまた私を転生させようと、新たな人生を与えようと考えているのであれば。

 どうかそんな小さな願いだけでも、叶えてもらえますように。


 ーーそう思ったと同時だった。


「  」


 目の前には何もない、真っ白な世界が広がっている中。けれど決して虚無感に襲われることも、悲観的な感情に流されることもなく、私はただ部屋の真ん中なのか、端なのか、上なのか下なのか、そもそもそういった類のものが存在するのかもわからないような場所で、私は何かを耳にした。

 音もない無音な空間。自分の心臓の音すら聞こえないような、文字通り何もない場所で突如聞こえたものは、この空間の中からするのか、はたまた私の中から聞こえているのか、もしくはそれ自体が全て私の勘違いなのか。


「……」


 勘違いではないように思えて、膝を抱えて座り込んでいた私は、やっとの思いで顔を上げた。


「……っ」


 聞こえてくる音が、まるで悲痛な叫びにも聞こえる。けれどなぜそう思うのかはわからない。本当にそうなのかもわからない。

 なにせ音は、風が髪を掠めた時のように僅かで、不確かだったからだ。


「……ェ」


 耳に届く音が、少し大きくなった。

 その音に思わず私は立ち上がる。胸の奥がそわそわする。

 それは期待なのか、不安なのか。もしくはそのどちらでもないのかもしれない。


「……チェ」


 ああ、これは人の声だ。

 耳を掠めるような声が、私の止まっていた心臓の音を掻き立てる。

 期待など初めからしなければ、苦しむこともないし、悲しみに暮れることもない。

 自分で自分の感情をコントロールできないことほど、歯痒いことはない。

 何度も後悔をして、何度も自分の運命を呪って、何度も自分に言い聞かせた。


「……ーチェ」


 姿を見なければ、気持ちは落ち着くだろうと。

 言葉を交わさなければ、いつかは忘れ去ってしまうだろうと。

 もう会えることはないだろうけど、来世レオンにまた、会いたいなんて思わない。

 もう一度『青愛』の世界に生きたいとは思わない。

 だからこの声の主がたとえ、レオンだったとしても私はその手を掴みたいなんて思わない。


 相手を引き離せないのであれば、嫌われればいい。

 相手を嫌いになれないのであれば、関わらなければいい。

 頭でそう思っていても、実際に行動を起こすのは簡単なことじゃない。


「……リーチェ」


 靄のかかったようなものが、どんどん形になって、色付いていく感覚。

 優しく私の名を呼ぶのは、あの人しかいない。

 その人物を思い返すだけで、私の心臓が、脳が、彼を探そうと動き出す。


 ……ああ、そうでした。私はキールにも負けないくらい、馬鹿なんでした。

 だからーー。


「レオンー!」


 どこから聞こえるのか、どこに向かえばいいのか分からない中で、私は手を伸ばして、叫ぶ。

 死んでしまったんだから、潔くここに留まっていればいいのに。今さらあがこうが、私にできることなんて何もないのに。

 そう思うのに。


「私のオタクさ、なめんなよっ!」


 『青愛』の世界を描くのに、前世でどれだけ人間らしい生活を削ったと思ってんだ。

 レオンのイケメンさを表現するために、前世でどれだけ魂を削ったと思ってんだ。

 そんな私が、もう少し推しを愛でるチャンスがあるんだったら愛でたいと思うのが人というか、私だ!


 自分でもMかよ! って思うんだけど、千差万別、百人百態、十人十色。みんな違ってみんないい! それでいい!


 両手で頬をバチンと叩いた。自分に喝を入れ直し、再びどこに向かって叫べばいいのかわからないけど、力いっぱいに叫び声を上げた。


「レオン! どこにいるの⁉︎」


 キョロキョロと辺りを見回す。人っこひとりいないこの場所で、私は目を凝らす。


「リーチェ!」


 さっきよりもはっきりと聞こえた。その声はまさしくレオンだ。


「レオン!」


 上を見て、下を向く。左に顔を向けて、右へと視線をずらす。

 そうやって、レオンの姿を探しているとーー。


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