第61話

   ***


 あの後の記憶があまりない。私達はあの後談笑した気がするけど、私はさっさと会話を切り上げ、店を去った。

 特に用事があったわけではないけれど、なんとなくあの場にいるのはいたたまれない気持ちになった。

 レオンは相変わらず私を送ろうと言ってくれたが、丁重にお断りをし、せっかくだからマリーゴールドとの時間を楽しんでと勧めておいた。

 丁寧に断りながらも、温かみを感じないよう努めた。どこか一線を引いているとレオンなら気づいただろう。


 逆に不躾だと思われたかもしれない。けれどそれなら私の思惑通り。レオンから離れてくれれば、私がレオンを押し返す必要はなくなる。

 ビジネス上の関係にヒビが入る可能性もあるが、当面は契約書がある。契約期間を過ぎるまではレオンと私はパートナーだ。だから契約更新までに私がビジネスで力をつければいい。

 レオンも私がそういう態度をとったことで、彼は以前よりも引き際が早くなったように思う。

 これで本腰を入れて、マリーゴールドに気持ちを傾けることができるのではないだろうか。


 半年の賭け。これで賭けは私の勝ちだ。

 賭けで勝つのに、こんなに虚しいことはない。


 マリーゴールドはどうしたものかと申し訳ない表情を見せつつ、頬がほんのり赤く高揚していた。

 もう少しレオンと一緒にいられると思っての喜びの気持ちだったのだろう。

 婚約者というのは形だけ。私達はビジネス上の関係。

 そうマリーゴールドに伝えたから、彼女も前よりかは遠慮することもないだろう。


「ふぅ……」


 私はズキズキと痛むこめかみに手をあて、そっと目を閉じる。


「頭痛に効くアロマ……今は手持ちがないわね」


 強いていえば、失恋に効くアロマがあれば良いのに。

 精神を落ち着かせたり、落ち込んだ気持ちを整えるような香りはある。

 けれど私が今求めているものはそういうものではない。

 好きになってしまった相手を、忘れるような……この感情ごと取り除いてくれるような香りがあったら良いのに。


「……とことん私は、めんどくさい奴だわ。そもそもこうなることがわかっていたのに、夢見ちゃって。夢見がちなのは前世から変わらないわね」


 漫画家だったのだから、いろんな妄想も夢見も得意分野だった。それが今世まで持ち越されるとは……。

 そう思って流れゆく窓の外の景色に目を向けていた、その時だった。

 窓の外に一瞬映り込んだ黒い影。動物にしては大きなそれが、一体何なのか確認しようと食い入るように視線を向けた瞬間だった。


 ーーガゴンッ、と大きな音と共に馬車が揺れた。


  *


 どうやら私は、あの後から気を失っていたらしい。

 目を覚ますと視界は真っ暗。馬車に乗った時はまだ明るかったが、もう夜になったのだろうか。

 というか寝てしまってた? いつの間に? 心労からくる疲れか?

 なんて一瞬思ったけれど、徐々に脳が回転をはじめる。


 ……違う。夜なんかじゃない。目の前が暗いのは、私の目を布で覆われてるせいだ。

 寝てしまったと勘違いしたのは、私が横たわっているせい。けれどここは、私の部屋のフカフカ天蓋付きベッドなんかじゃなく、冷たくて固い、そして埃っぽい床の上。右頬に当たるそれが、私の記憶するベッドではないと確かに伝えてくる。


 じゃあここは、どこなの?

 後ろ手に縛られた両手。そして足も同じく不自由に縛られているようだ。

 体をよじるとギシギシと軋む音を立てる手足のロープ。キツく縛られたそれに、痛みも伴う。

 不自由なのは手足だけじゃない。私の口にも布で覆われ、声が出せない状態だ。

 そんな状況に私の頭は一気に冴え渡り、こめかみ辺りからツーッと冷たい汗が地面に向かって伝い落ちた。


 何 が ど う な っ て る の ?


 頭の中でチカチカと星が瞬くように、鋭い痛みが走っている。その痛みを耐えながら、自分の記憶を必死になって探る。

 レオン達と別れて一人、馬車に乗った。その道中で大きな音と共に馬車が揺れて……ああ、そうだ。

 忘れていた記憶を掴んだと同時に、足音が聞こえる。


「起きたか」


 そう言った男の声。背中の皮膚がゾワリと粟立つ。


「おい、目隠しを外せ」


 目隠しを外された先も、薄暗い。けれど目隠しされていたせいで私の目はその薄暗い部屋にもすぐに慣れ始める。

 最初に目に飛び込んできたのは、薄汚い小屋のような場所。そして私のすぐそばに屈んで、顔を覗き込んでいる男。その次に、私の目隠しを取ったのであろう別の男。二人とも黒いフードを深く被っている。

 私の恐怖心を煽るかのように、男達の口元がニタリと笑みを浮かべた。


 この男達には見覚えがある。

 私を乗せた馬車が大きな音を立てて揺れる直前に見た、影。その影はこの男達だった。馬車を運転していた従者のもがき苦しむような声が耳に届いた直後、この男達が馬車の中に侵入してきて、私が悲鳴を上げたと同時に、布で口を覆われた。

 突然の出来事に驚きながら恐怖に震えていた私は、重くのしかかってくるような瞼に抗えず、そのまま意識を失った。

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