第44話
「レオン様、早くあのご令嬢を安全な場所へお連れ下さい」
「いいえ、リーチェの安全が先です」
背後から感じるレオンのぬくもりに、私の心臓はアメーバのように分裂する。
彼に触れられる場所、彼の吐息や熱を感じる場所全てに、心臓のような鼓動を感じてしまう。
片側だとはいえ、打たれた頬が赤くてよかった。ここが屋敷の中でなく、薄暗い外でよかった。
「私は大丈夫です。ここには多くの人が集まっています。こんな場では公爵様も私をぶつ事はできないでしょう」
たとえそうしたいとしても。さすがに公爵という肩書きがあるだけに、数多い貴族の前では手出しはできないだろう。
「それでも、あなたを安全な場所へ連れて行くのが先です。リーチェ、あなたは頬だけでなく、足も傷だらけなのですよ? それにこの格好のまま夜風の当たる場所に一人にするわけにはいきません」
どこまでも彼の優先順位は変わらない。一度は今日のパーティから追い返されたとはいえ、パートナーとして乗り込んだ仲。それに形だけの婚約関係だとしても、彼は本物のパートナーとして私に接し、優先してくれる。
もちろん彼がそういう態度を取るのには理由がある。レオンは私を好きだと言ったのだから、それならばこの態度は納得できるけれど……きっと彼のその考えは今、揺れに揺れていることだろう。
そして私がさっき申し出た言葉に対して頑なに反対したことも、後悔し始めているのではないだろうか。
幸運にも私達のこの関係には期間がある。ーー六ヶ月、その日が来ればレオンは晴れて自由の身。
けれど不幸にも、彼はすでに運命の相手と出会ってしまった。逆を返せば、私達の関係にはあと六ヶ月もある。
男主人公であるレオンは、たとえ運命の相手を見つけたとしても律儀に私との約束を守ろうとする。
芽生えたばかりの感情を抑え込み、元ある体裁を重んじる事ができる程度には理性も保ててるようだ。
……けれど、そんなレオンだからこそ、私から突き放してあげなければならない。
そうでなければ、彼は自分の気持ちに真っ正直になれず、苦悩しながら私に対する義務にも似た責任を全うしようとするから。
「お願いですから、先に彼女を安全な場所へと連れて行って下さい。私は公爵様との話が終わっていません。ですからここで私は、レオン様の帰りをお待ちしております」
スパッと言葉を切って、私はレオンから視線を剥がした。これ以上の議論は不要だとレオンに知らしめるために。
残酷なまでにレオンからの沈黙が続く。けれそ私は振り返らず、レオンから距離を取った。
「……分かりました。ではすぐに戻ってきますので、くれぐれも無茶はなさらないで下さい」
囁くような言葉を残し、レオンはマリーゴールドに向かって歩き始めた。そんな彼の背中を見つめていると、本来のストーリーを思い出す。
キールからマリーゴールドを助けてあげたレオンは、そのまま彼女に目を奪われる。一方マリーゴールドもレオンと同じくして、彼に心を奪われる。
原稿を書いていた時には胸が躍るシーンだったはずなのに、今はどうしてこうも苦しいのか。
……もう少しだけ、待ってて。今はまだレオンを手放す事はできないから。
私はまだ、レオンが必要だ。レオンの力が、自立するためには必要だ。
今レオンを手放せば、キールにまた狙われた時の後ろ盾が何もない。
地位のためにマルコフに結婚を強いられた時に、突っぱねることも逃げ出すこともできない。
ああ……ここは私が作り上げた世界なのに、私は何一つ自由にできないのね。
そう思うと、無性に胸の奥がひんやりと冷え込む感じがする。
マリーゴールドの元にたどり着いて、レオンが彼女に手を伸ばす。それを恥ずかしそうで、私を窺うようにチラチラと視線を投げてくる様子に、無性に虚しさにも似た感情が心を支配する。
キールとの婚約は私の意思とは違うことをマリーゴールドはもう理解しているだろう。
そしてレオンが駆けつけて私を助けた様子や、レオンと私の衣装が対をなしているという事も、彼女はもう気づいているはず。
それがどういう意味なのか、気になっているに違いない。私のパートナーがキールではなく、レオンなのだとすれば、彼女はきっと気持ちを胸にしまおうと考えるはず。
それが私が描いた女主人公だから。
今、私の立ち位置からレオンの顔が見えなくて本当に良かった。背中を向けてくれているおかげで、彼が今どんな表情で、青い瞳はどんな風に彼女を見ているのかを知らなくて済むから。
レオンがマリーゴールドを抱きかかえ、マリーゴールドも恥ずかしそうに頬に赤い薔薇を咲かせながら、再び私に目を向ける。
私とレオンは書面上の婚約者でキール同様に形だけのものなのだと、マリーゴールドを安心させるような笑みを浮かべるべきだ。……そう思ってるのに、やっぱり私の表情は固まったまま固定されている。
ーーごめんね。
言葉にできない想いは、胸の中でつぶやくことにした。
そしてそのまま私は、再びキールと顔を突き合わせた。
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