第43話
この場によく響くように、はっきりとした言葉でそう告げた。
背後に立つレオンの顔を見なくても、今彼がどういった表情をしているのか、分かる気がした。
驚き、そして、なぜ……? と、そういった顔だろうか。
「……あなたはいつも、私の差し出した手を拒むのですね」
ボソリとつぶやいた言葉が、背後から私の心臓を突き刺した気がした。悲しみを孕んだ声に、私は思わず振り返る。
振り返った先にいるレオンの青い瞳は、静寂なほどに静まり返っていた。この夜空のように澄んだ瞳の奥に映るのは、欲望と葛藤にさいなまれる私の顔。
そんな自分の姿が醜く思え、ありったけの勇気を総動員して口を開いた。
「……レオン様、あそこにいるご令嬢を安全な場所へ運んであげて下さいませ」
指先が震えないように爪の先まで神経を尖らせ、私は未だ熟れた色をその愛らしい頬に乗せたままレオンを見つめる、マリーゴールドへと向けた。
「彼女の足はきっと――」
全ての言葉を言い切る前に、私は声を失った。
たくさんの聴衆の中、殺気立つキールと騎士達に視線を奪われていたレオンがやっと、マリーゴールドの存在に気づき、彼女に視線を向けた。
レオンが私の指先から視線をスライドさせマリーゴールドを見た瞬間、彼の瞳孔は小さく引き締まる代わりに、切れ長な目は大きく膨らむように広がっていく。
さっきまで無風だったこの場に、サァァッと生ぬるい風が吹き抜けた。まるで何かの感情を動かすための後押しでもするかのように。止まった時を押し動かそうとでもするかのように。
庭園に広がる花から香る優美な甘い香り。この風はレオンが付けた媚薬の香りをマリーゴールドまで届けたのだろうか。
風に舞う無数の花弁。その舞ったものが、まるで天使の祝福のようにも見えた。
――私は、人が恋に落ちる瞬間を描いた事がある。
そう、これはまるで、私が描いたマンガのワンシーンのようだった。
……私が生き残る選択をし、キールを追わない事。私が事業を始めてレオンと接触した事。レオンの為に媚薬香水を作り始めた事。
いくつかの選択を繰り返し、世界は分岐したのだと考えるようになっていた。
この世界は選択の連続で、未来はパラレルに広がっているのかもしれないと、小さな期待を胸に抱き始めていた。
……ううん。そうだといいなと、願っていたのは私だ。
やはり世界は、私が描いた未来へと向かっているようだ。
たとえ過程がどうであろうと。きっとルート自体はどれを選択しても問題がないのかもしれない。
描く未来さえ、その通りに事が運ぶのであれば――。
「――きっと彼女の足は捻挫しているわ。倒れた時、変な体制だったから」
お腹に力を込め、声が震えないよう細心の注意を払った。
顔の表情筋が強張り、ミシミシと音を立てながら動いている。きっと今の私の表情はロボットよりも人間味がないだろう。
今の私にはこの状況でこんな表情を作り、そう言うのがやっとだった。
……けれどレオンにとっては、私の不審な様子すら気づいていないかもしれない。
彼は私の声が聞こえるまで、息を止めていたようだ。ハッと短く吐き出した吐息を私は聞き逃さなかった。
その上彼の視線はまだ、マリーゴールドに向いている。
あの青く澄んだ瞳に映るのは私の赤い髪ではなく、マリーゴールドの輝かしい黄金色の髪が遍いている。
そしてそれは、この先もずっと……。
「おい、人の心配をしている場合か? お前は今、この状況を理解しきれていないようだな」
ギリリと奥歯を噛み、表情を歪めたキール。威圧的で、高圧的。私を辱めようと、亡き者にしようと画策する緋色の瞳。
そんなキールの様子にも、もう私の体は震えない。心は静かに怯える様子も感じられなくなっていた。
キールとのことより、私をより恐怖に陥れる状況があるせいなのかもしれない。
ううん、私はどんな状況になっても一人で立ち向かわなければならない。レオンの決闘を反故にしたのも、それが理由だ。
ビジネスの関係があったとしても、彼の助けは最低限にしなければならない。助けてもらう時は金銭が発生する関係にしなくてはならない。
でなければきっと、私だけでなくレオンも後悔することになるのだから。
「この状況を理解しきれていないのは、公爵様の方かと思うのですが?」
「よくもぬけぬけと……」
「令嬢が足を痛め地面に倒れ、もう一方の令嬢は頬を赤く腫らしながらドレスを割かれているのですよ? どちらがより恥ずかしい状況なのかお分かりいただけないのでしょうか?」
私は割けた胸元の生地に、そっと触れる。すると私の肩に掛けらているレオンの上着を、ギュッと背後から引き寄せられた。
どうやらレオンの意識が、やっとこの場に戻ってきたようだ。
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