第41話

 レオンの香りと、媚薬の香り。それらの香りに包まれて、私はほっと肩の力が抜けるのを感じた。


「リーチェ、一人にしてすみませんでした」


 私の体を抱きしめるレオンの腕が、私に謝罪の意を述べるようにギュッと締め付けている。

 私の頬が熱いのは、さっきキールに叩かれたせいなのか、それともーー。


「……お前、どうしてここに戻ってきた」


 レオンの拳を受けて地面にひれ伏していたキールは、怒りをむき出しにした状態でよろよろと立ち上がる。

 レオンは自分が着ていたジャケットを脱ぎ、私の肩にかけたあと、再び私を抱き寄せた。


「俺の許可無しに、どうやって入り込んだ? おい、警備はどうなってる!?」


 騒ぎを聞きつけてわらわらと人が集まりだしている。

 もちろんその中にはこの屋敷の警備兵や、従者の姿もある。その者たちに向かって、キールは咆哮するように叫んだ。


「さっさとコイツをつまみ出せ! 不法侵入だぞ!」

「不法侵入? 人聞きが悪いな」

「はっ、招待状も持たずに人の屋敷に入り込んだんだ。これを不法侵入と呼ばずに何と言う? その上暴行を加えるなど狂気の沙汰だなっ!」


 レオンに殴られた箇所を押さえながら、集まってきた警備兵に抱えながら立ち上がらせてもらうキールは、さらにこう叫んだ。


「不法侵入罪、暴行罪。その上俺の婚約者を勝手に奪おうなどというのは、皇帝陛下の意向に反する行為。不敬罪に該当する行為だと分かってるのか?」


 キールは苛立ちと不快感をその表情に乗せながら、クックッと笑みを零している。

 どこまでもムカつくけれど、キールの言う通りだ。キールとの婚約は皇帝陛下の許可を得た地点で、陛下の意志となる。どう考えてもレオンの行動は罪だ。

 たとえ彼の行いが間違ったものではないとこの場の誰もが立証したとしても、だ。


 私は思わず下唇を噛みしめた。熱を帯び、今では水風船のように腫れあがった感覚のする頬が噛みしめる唇に引っ張られて鋭く痛んだ。

 けれどそんな痛みも、この不利な状況による苛立ちにより感覚は薄れていった。


「……腫れていますね。すみません、もう少しだけ堪えてください」


 レオンは私の腫れた頬に手を当てて、ほんのり眉尻を下げた。これほどまでに後悔の念を表情に出した事が未だかつてあったのだろうか。

 そう思えるほど、レオンの表情からは悲しみの色が表われている。


 私の頬からそっと手を引くと、私の肩に掛けてくれたレオンのジャケットのポケットに手を入れ、そこから丸めた紙を取り出した。

 丸めた紙は赤いリボンで留められていて……。


「お前! それは……」


 レオンが手に取ったものが何なのか、瞬間的に理解したキールの表情から笑みが消えた。

 そしてそれには私ですら見覚えがあった。それはついさっき、この公爵邸に来た時、キールが手にしていたものと同じ羊皮紙で出来ている。

 その上あの黒味を帯びた紅色は、皇族の象徴でもある色。そう、あの手紙の差出人はまさしく――。


「俺も急ぎで陛下から書面をいただいたんだ。苦労したぞ、事前の約束もなく陛下とコンタクトとるのは容易ではないからな」


 どうやって皇帝とコンタクトを取ったのか。いくら一番足の速い駿馬で駆けたとしても、行って戻ってくるには早すぎる。皇帝がいる城はここから数時間で行けるような距離ではない。

 となれば、魔法によるものだろうか。

 レオンがそばにいるだけで、さっきまで恐怖に慄いていた私の気持ちが落ちつき、冷静さを取り戻し始めていた。

 そんな中で、シュルリと蘇芳色のリボンを解いたレオンは、巻かれた紙をキールに向けてかざした。


「さっき俺に言ったな。不法侵入罪に不敬罪だったか? それは全てこの書面で帳消しだろう」


 私の位置からはレオンが持つ書面に書かれた文字が見えない。けれどそれがどういうものなのかは、この状況が物語っていた。

 書面は皇帝陛下から得たもので、その命によってレオンはこのコーデリア公爵邸の敷地に足を踏み入れているということを。

 そしてそれが正当性のあるものだという事は、キールの苛立つ表情を見れば一発だった。


「どうやら陛下は俺とリーチェとの関係を全くご存じではなかったようだ。だからお前が持つ書面は撤回すると言っていたぞ」

「そんな馬鹿な……」

「馬鹿なものか。いくらこの帝国に数少ない公爵家だとしても、俺は皇帝に仕える騎士。どれほどの命を受けてこの国の為、陛下の為にこの身を捧げてきたか、お前はよく分かっていなかったようだな」


 言葉の最後に、レオンは私に視線を投げてよこした。

 青い瞳の甘い視線に、思わず私の胸はとろけそうになる。けれどその瞬間、私の視界に入ったのは驚いた様子でレオンに視線を向けているマリーゴールドの姿だった。

 ガラス玉の様な大きくて澄んだ瞳は、まるで引力に惹きつけられているかのように、レオンだけを見つめている。

 さっきまで青くしていた顔には、ほんのり朱の色が差している。それを見ただけで、とろけそうになっていた私の胸は、どんどん熱を失い、固く冷たく閉ざされていくような気がした。

 そんな私の様子を知る由もなく、レオンはさらにキールへと言葉を投げつけた。

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