第40話
※アロマオイルは用法容量を守り、絶対に人様の目に向けてかけてはいけません。
※良い子の皆様は、どうか絶っ対にマネしないで下さい!
……前世でこのシーンを漫画に描き起こしていたなら、私は絶対こういった文言をコマ割りの隅に入れただろう。
そんな風に思いながらも、私は戸惑うマリーゴールドの手を引きながら走る、走る、走る。
「あのっ、コーデリア公爵様はご令嬢の婚約者様なのでは?」
「あの男とは書面上のみの関係です! 私は彼を婚約者とは認めたくもありません!」
「そう、なのですね……?」
「そうなのですっ!」
誤解されてるだけでも虫唾が走るなんて、どれだけ不快な男なんだアイツは。
「とにかく今は逃げましょう!」
と言っても広い敷地、どこが出口なのか分からない。マリーゴールドなら正面玄関の方角を知ってるかな? そう思って振り返ると……。
「おい、逃がすか!」
目をウサギのように真っ赤にさせながら走ってくるキールの姿が目に入った。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!」
思わず叫んでしまったと同時に、私の体はツンと後ろに引っ張られた。
「きゃっ!」
今度の声は私じゃない。私に手を引かれながら、後ろを走っていたマリーゴールドの声だった。
マリーゴールドは足首を捻り、そのまま地面に頽れた。そしてもちろん例外なく、マリーゴールドの手首を掴んでいた私も、彼女と一緒に倒れる事になる。
「いたたっ、大丈……」
思いっきりお尻を地面にぶつけて、そこを手でさすりながら立ち上がろうとしたけどそんな私の目の前には――。
「お前、よくもこの俺をあんな目に遭わせてくれたな……」
怒りが最高潮に達したキールの顔があった。
こめかみは血管が浮き上がり、そこが神経質そうにピクピクと揺れている。
「リーチェ・トリニダード、もう許さんぞ!」
そう言ってキールは私の腕を掴み、無理やり立ち上がらせた後、もう一方の手を大きく振りかぶって――パンッ!
乾いた音が、広い敷地内で響いた。いいや、響いたと思ったのは私の鼓膜内でだったのかもしれない。
打たれたのであろう頬が徐々に熱を帯びていく。その熱を帯び始めたすぐ近くの耳孔内では、パンッと叩かれた音が届いたとほぼ同時に、キーンという高音が響き渡っていた。
打たれた強さに私の体はしなるようにして再び地面に倒れそうになったというのに、自然の摂理に反してそれができなかったのは、キールに掴まれた腕のせいだ。
まるで壊れた操り人形の腕でも掴んでいるかのようなこの情景に、そばで倒れたままのマリーゴールドの瞳は大きく見開かれた。
「だっ、誰か……っ!」
マリーゴールドは後ずさるようにして立ち上がり、周りに助けを求めて声を上げる。震える体で、震える声を上げながら。
きっとキールの表情に、怒りのオーラに、気圧されているのだろう。
けれど殴られて睨まれている当の本人である私ときたら、キールのこんな態度や表情に対しても、今は心静かだ。
殴られた事で、どこかのタガが外れてしまったのか。それとも驚きのあまり、他の感情が一時的に機能しなくなってしまったのか。
どちらにせよ、今は彼を怖いとも思えない。それが逆にありがたかった。
「ぎゃーぎゃー騒ぐな」
目線だけをマリーゴールドに投げるキール。そのキールの視線を受けて、マリーゴールドはさらに震え上がった。
「人を呼んで来てもいいが、困るのはこの女の方だぞ」
緋色の瞳が月の光を浴びて、怪しく輝いた。ゾクッとするような妖艶な笑みなのに、私の心には恐怖ももちろんトキメキも感じない。
少しずつ耳鳴りの音が鳴りやみ始めていた、矢先だった。
――ビリッ!
キールが私のドレスを強く引っ張ったせいで、胸元のレース生地が破けた。それによってコルセットが露わになる。
「なっ、何をなさるおつもりですか!」
「言っただろう。人を呼べば困るのはリーチェの方だと」
さっきまで震えていただけのマリーゴールドの顔から、どんどん血の気が引いていく。
その表情を横目に見ながら、さっきまでどこか他人事のように感じていた私の体にも、感覚が戻ってきたのを感じた。
「や、やめて……」
やっと出た声が、全くもって自分の声だとは思えない。それほどか細く、震えていた。
「今さら遅い。俺が受けた辱めを、お前もその身で感じるがいい」
急にさっきまで手放していた痛みと恐怖がどっと押し寄せてくる。体の震えが止まらない。逃げようにも、キールの手は力強く抜け出せない。
そもそも恐怖心が、その手を振り払う勇気をそぎ落としていく。
――助けて……!
そんな風に思いながら、瞳にあふれた涙が頬を伝った瞬間だった。
「お前がそれを言うな」
その声と共に、キールは突然突風に吹き飛ばされたように私の視界から九時の方向へと吹き飛び、それに引っ張られないように私の腰には力強い手が巻き付いた。
「……リーチェ、遅れてすみませんでした」
一瞬何が起きたのか分からなくて呆気にとられていたけれど、私の腰に手を回しているのが誰の手で、囁くように言った言葉がどんな人物なのか、すぐに悟った。
「もう大丈夫です」
吹き飛んだキールをゴミのように見つめながら、私をギュッと抱き寄せたのは、この物語の男主人公。
そして私のヒーローでもある、レオンだった。
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