第38話

 キールがここにいるのなら、私が逃げ帰るには都合がいい。ここは申し訳ないけれど、どこぞの令嬢に犠牲になってもらおう。

 …………って思うのに、私の足が動かない。


 くそぅ! どうしてこういう時に限って、その顔面偏差値に騙されるようなチョロ令嬢を引っかけないんだ! あそこにいる令嬢がもし、キールに迫られてまんざらでもない様子だったなら、私は大手を振ってこの場を立ち去れたのにっ!

 全くもて運が悪い。私もあそこにいる令嬢も。


「誰か……!」


 令嬢の声がいよいよ鬼気迫るものに変わった。


「ああ、もうっ!」


 どうにでもなれ! という気持ちで、さっき履いたばかりの靴を片方脱ぎ、そのピンヒールを地面に押し付けてボキリと折った。

 そして私はそれを、キールの後頭部めがけて思いっきり投げつけた!


 ――ドゴォッ!


「がぁっ!」


 間抜けな男の悲痛な叫びが聞こえて、私は思わずドレスの裾に隠しながらガッツポーズをキメた。と同時に、素早くその場にしゃがみ込んだ。


「すっ、すみません! ヒールが折れて転んでしまった際に靴が飛んでしまったようです。大丈夫でしたか……って、あら? コーデリア公爵様ではありませんか」


 あらまぁ、ビックリ。

 なんて口元に手を添えて、驚いた素振りを見せた。

 あっ。まさか、こんな西洋風なお国で東洋のお面でよく見る般若顔を拝めるとは。

 鬼の形相とはまさに今のキールにぴったりの言葉だ。


「……お前、この俺に向けて」

「投げたのではありません。そして故意でもありません。事故です」


 キールが何を言いたいのか手に取るようにわかり、もうどうにでもなれと思いながら言葉を遮った。

 そしてしおらしく申し訳なさげに眉をㇵの字に変え、体を小刻みに揺らしながら立ち上がる。

 なんなら涙もほんのり浮かべてるところが、最大のポイントだ。大女優顔負けの演技力。

 涙はキールの間抜け声を聞いてお腹がよじれそうになったのを、必死に堪えたせいだけど。


 それよりもこの隙にそこの令嬢、さっさと逃げてくれないかな。じゃないと私も逃げられないんだけど……そう思ってキールの背後に隠れるように立ったままの令嬢に、目を向けた。


「――なんで」


 思わず声を漏らしてしまった。

 声だって漏れるはずだ。だって、キールの後ろに立っている人物は、今日ここにいるような人間じゃない。


「マリーゴールドがここに……?」


 波打つように揺れる金糸のような豊かな髪に、新緑の若葉の色をした瞳。小さな口元はチェリーのような愛らしい色をのせ、透き通るような肌はまるで天使がこの世に舞い降りたかと思わせるほど、人間離れしているように見える。

 そんな彼女は、この世界のヒロインであり、レオンと恋仲になる相手――マリーゴールド・エマ・クレイマス伯爵令嬢だ。


 思わずつぶやいた言葉だけど、私の声が届いたのか届いていないのか、マリーゴールドは私を一目見て、その場に崩れるようにペタンと膝をついた。


「……ほっとしたら足の力が抜けてしまいました」


 いや、今ほっとしたらダメだから!

 私が現れただけで、何の解決もしてないし。なんならキールは私が投げた靴のせいでさらに逆上してる状態だし。

 状況で言えば、さっきと違った意味で最悪だ。


「だっ、大丈夫ですか⁉」


 私はマリーゴールドを心配するフリをして、彼女に駆け寄った。

 けれど般若顔のキールがそう簡単に私を通してくれるわけもなく、マリーゴールドに差し出した手をいとも簡単に掴まれてしまった。


「いっ、痛い!」

「ふん、よく言うな。こんなもの、俺が受けた痛みに比べたらどおってことないだろう」


 いや、ヒールの先を折っておいたんだから、私の靴だってそれほど痛くなかったはずだ。

 こんなことなら、ヒールが折れたていで転んだ事になんてせず、ヒールついたまま投げつけてやればよかった。


「大丈夫ですか⁉」


 マリーゴールドはヨロヨロとした足取りで、なんとか立ち上がった。

 いや、私の事は気にせず早く逃げて! っていう意味を込めてマリーゴールドに視線を送る。はたして彼女がきちんと私の意図をくみ取ってくれているのかは分からないけれど。

 そんな風に私がマリーゴールドにアイコンタクトを送っていると。


「大丈夫に決まっている」


 キールが私の代わりにマリーゴールドに返事をした。

 いや、お前が言うなよ。私が大丈夫かどうかはあんたが一番よく分かっていないはずなんだから。

 だけど、ここはこの会話に乗っかったほうがいいのかも。


「コーデリア公爵様がおっしゃったように、私は大丈夫です。ですのであなたは先にパーティへ戻ってください」

「ですがっ!」

「私と公爵様は婚約している仲です。少し話し合いが必要なようですので、席をはずしていただきたいのです」


 私がそう言うと、マリーゴールドはショックを受けたような表情を見せた。

 ……そうでしょう、そうでしょう。だってこの男、顔だけ良しの脳みそは下半身にあるような男だもん。そんな男と婚約してるなんて正気じゃないと思うよね、普通。

 しかも今マリーゴールドに迫っていた現場を押さえちゃったわけだから、本来は修羅場なわけですし。

 キールの表情と、私の手首を痛めつけてくるこの様子からして、なぜか私の方が浮気現場押さえられたように見えるのが不思議で仕方ないのだけれど。

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