第37話

 ……さっさと帰ろう。

 私の頭にあるのは、この考え一択だった。


 そもそも今日のパーティに参加した理由は、キールが私を脅したから。婚約を迫るぞっていう脅しの招待状を送ってきたから、だから仕方なしに今夜は参加することにしたんだ。

 こんな展開になったのなら、もうここにいる必要はないわけで。むしろ帰りたくて仕方がない。


 レオンも追い出されてしまったし、今日はなに一つ計画通りに事が進まない。

 あの皇帝陛下の文書には驚いたし、今後キールを避ける事が出来ないこの現状に絶望しそうになるんだけど、それよりも今この瞬間をどう乗り切るかが問題だ。

 どうにかうまくこの場を立ち去らなくては、私はそのうちキールの子供でも身ごもりそうで怖い。怖すぎる。

 初対面の私にあれだけ言い寄り、人気の無い休憩室に連れ込みそうな勢いだったあのクズ野郎だ。公式に婚約者なんてなろうものなら、何をしでかしてくるかわかったものではない。


 現にあいつは私をパーティの間隣に立たせ、ダンスを踊らされ、他の令嬢を口説くような会話を繰り広げてる間も、私を隣に立たせた。

 っていうか婚約者がいる隣で他の令嬢を口説くって、バカなの? 何がしたいの?

 問題はあの文書があることで、簡単には婚約破棄が出来ないという事。それを分かってて目の前で浮気を繰り広げるゲス男。

 これほどまでにクズいヤツ……未だかつて見た事があっただろうか。いや、無いな。

 というか、そういうキャラを作った私の落ち度だ。


「はぁ~~~~~~……」


 体の中に溜まったヘドロのようなどす黒い塊りを吐き出すかのように、洗面所に向かって深いため息をついた。

 そして身を清めるかのように、水道で手を洗い、鏡の中に映る自分に挑みかかるように見つめる。

 キールの元から逃げるには、トイレに行くしかなかった。そのトイレにもなかなか逃げ込めなくて苦労したけど、そろそろ戻らなければならない。


 いっそのこと、このまま家に帰ってしまおうか。キールの隙をついて。

 私に従者をつけてたから、キールがそばにいなくともあいつの目はいつでも私のすぐそばにあるという事だ。

 その従者が今トイレの前で待っている。なら、トイレの窓から逃げれば従者を撒けるかも?

 そう思ってトイレの入り口とは反対側にある窓から外を覗く。いや、無理だ。ここは二階。しかも西洋の家ってやたら天井が高い。二階といっても三階くらいの高さがあるし、足場もない。無理じゃん。

 だったら――。


「きゃぁぁぁっ!」


 トイレの扉を勢いよく開け放つ。扉を開けるとキールが私に付けた従者が驚いた顔で、今にも倒れ込みそうになっている私の体を支えた。


「一体なにがあったのですか⁉」

「だっ、誰かが窓の外から覗いていてっ……!」

「窓の外、ですか?」

「きっと魔術師か誰かなんだわ! 黒いフードを目深く被っていたもの! それにここは二階なのに、宙に浮いたようにフワッと窓の外に現れたの! 本当よっ! 早く捕まえて来て‼ 今ならトイレにはあの不審者しかいないはずよ!」


 慌てながらも私の言葉に背中を押されて、従者はトイレの中へと駆け込んでいく。それを見たと同時に、私は靴を脱いで手に持ち、ドレスの裾をグイッと持ち上げて駆け出した。

 従者が出てくる前に逃げなければ。ヒールの高い靴ではうまく走れない。

 人気の少ない場所のトイレを利用したおかげで、こんなはしたない恰好をしていても来賓客とは出くわさないのがありがたかった。


 息をつく暇もなく右へ左へ、時に階段を駆け下りて、そしてひとまずは誰も追ってこないだろうと思ったところでやっと足を止めた。

 はぁはぁと息を整えながら、人気のない庭に出る。漏れ出る屋敷からの光。それが差し入れない場所で再び靴に足を通した。


 このまま正面玄関へ抜けれないかな? そしたら馬車に乗って帰れそうなんだけど。

 公爵邸に来たのは初めて。さらに従者の目を避けているせいで、どっちに行けば正面玄関に出るのかも聞けない。これはなかなか骨が折れるな……なんて思いつつ、逆にいえば人気がある方向に向かえば自ずと玄関の方向なのでは? という答えにたどり着き、私はやみくもに歩き出した。

 少し歩いた先で、人の声が聞こえた。それを頼りに歩いて行くと――。


「……や、やめて下さい」


 悲痛な声が、私の耳を貫くように届いた。決して大きな声ではないというのに、はっきりと聞こえた。周りに喧騒が無い上に、声の主の嫌悪感が、その声によく表れていたからだ。

 私は足音を忍ばせ、声を潜めながら、声の方へと近づく。

 こんなところで一体誰が……? そう思った矢先、再び声が聞こえた。


「やめて欲しい? 本当に? その割に顔が赤いぞ」


 あーーーーーーーー……。

 一瞬で察してしまった。今この茂みの向こう側に誰がいるのかを。

 忍んでいた私の足はピタリと止まる。このまま回れ右をしようと思っていた矢先だった。


「あっ、赤くなど……! コーデリア公爵様、公爵様には婚約者の方がいると言っていたではありませんかっ!」


 女性が放ったひと言は、私の疑惑が確信に変わった瞬間だった。

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