第35話
キールと出会ったのはそんなに遠い昔の話ではないにも関わらず、あの当時、出会ったばかりの頃に感じていた胸の内に感じたトキメキはウンともスンともいわない。むしろ不快だ。
顔が良いのは正義だとすら思った事のある前世の私が、どれほど愚かだったのかを痛感しつつ、私はこの不快男の腕の中から逃れるべくして身をよじる。
けれどそれは上手くいかない。逃げようともがけばもがくほど、キールはさらに私を強く抱きしめ、逃さない。
こうなれば直談判だ。
「コーデリア公爵様。恐れ入りますが、今宵はパーティに招待された客の一人であって、決して公爵様のパートナーという訳ではないと思うのですが?」
「ああ、伝達ミスがあったようだな。私はリーチェをパートナーとして招待したつもりだったのだ」
だからその後出しジャンケンはナシでしょ。
「招待状を手配させた者を即刻処理しよう」
それで良いか? なんて首を傾げながら微笑むこの男は、まごう事なきクズだ。クズ上司だ。下の者に責任を押し付けて、自分は悪くないと言い張るこの様子、ブラック企業や政治家でよく見た光景そのもの。
……虫酸が走る。
「へっ、クズ! ヘぇっ、クズ!」
くしゃみの出る口元を手で覆いながら、キールから顔を背ける。
私がそうした動作をしているのとは打って変わり、キールはピタリと動きを止めた。
目の前に立つレオンは驚いたように、少し目を見開いた。
「失礼致しました。どうやら夜風で冷えてしまったようです……へっ、クズ! クズッ! クズッ!」
「お前……クズとは、この俺に向かって言ってるのか? 俺を誰だと思ってるんだ……っ!」
キールはギリリと歯ぎしりをし、レオンに関しては珍しく笑いを堪えたような表情を見せた。
「まさか!? とんだ勘違いです。これはただのくしゃみですので。ああ、また……クズッ、クズッ!」
「このっ……!」
キールが今にも噛みつきそうなほど、私を絞めあげようとした瞬間ーー。
「いっ……!」
ーーヒールの踵で思いっきりキールの足を踏みつけた。
レオンが動き出したのを目の端で捉えたけど、彼が私を助け出そうとするより先、そしてキールが私に危害を加えるより先に取った行動だった。
どうだ、参ったか。会心の一撃、ピンヒール(10センチ)の威力を。
端正な顔が見にくく歪むその様子に、私はスーッと胸の内が晴れるような感覚を覚えつつ、すかさず緩んだキールの腕の中から抜け出した。
抜け出したのと同時に、今度はレオンが私を抱きとめるようにギュッと腰に手を回した。
「あら、失礼致しました。あまりにもピッタリとくっついていたものですから、どうやら足を踏んでしまったようです」
私はドレスの裾を丁寧に持ち上げ、頭を下げた。
足を踏んだのも謝っている言葉も嘘だと分かるようなあからさまな態度。キールのこめかみがピクリと揺れた。
ピンヒールの後は、さらなる反撃に打って出る。あからさまに小馬鹿にするという攻撃。いや、それは足を踏む前にもやってるけど。
粘着系のゲス男は、一度くらいコテンパンに、心身ともに傷つくがいい。
「……どこまでもお前は私を愚弄するつもりなのだな」
ひっ、と声をあげそうになる程に怒り心頭に発しているキールにも怯まず、私は胸を張った。
「誰が先に愚弄したのかを今一度お考えいただきたく思います」
レオンは相変わらず私のすぐそばにいる。キールが再び私を引き寄せようとしたり、激高したりして殴りかかってきた場合に備えて、レオンは私を守ろうと身を固くしているのが伝わってくる。
とても頼もしい限りだ。だからこそ私は胸を張って臆さない。
「私の事を軽んじただけでなく、私のパートナーであるレオン様の事まで愚弄したという事にも気づいていらっしゃらないのでしょうか?」
レオンの手を掴み、ギュッと握りしめる。
彼の大きな手が一瞬ぎこちなく固まったよう気がしたけど、すぐに私の手を握り返してくれた。
ホッとする温かさ。それは手袋をしている上からでも伝わる。
普段は剣を握り、数え切れないほどに出来たマメを潰し硬くなった手は、ゴツゴツとしているはずなのに心地が良い。
「はっ」
吐き捨てるように笑い声をあげたキール。さっきまでの苛立ちはどこかへ押しやり、私と同じように蔑んだ表情を見せた。
「気づいていないのはお前の方だぞ、リーチェ」
「……どういう意味でしょうか?」
キールの側にいた別の従者がしずしずと手紙を差し出した。クルクルと丸められたそれは、赤いリボンで閉じられている。
そのリボンをシュッと解き、手紙の内容を私に見せつけた。
…………はっ。
はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ⁉︎
「シャイなお前の為に、わざわざ皇帝陛下から承諾を得たのだ。ありがたく思うんだな」
「ふざけた真似を……!」
レオンは覇気を放ちながら、一歩キールに歩み寄る。けれど二人の間に割って入ったのは騎士達。騎士は剣を構え、レオンを威嚇している。その後ろで飄々とした表情で私達を見つめるキール。
まさに勝ち誇った顔をしている。癪に障る。けれど今はそんな事すらどうでもよかった。
なぜならキールは皇帝陛下から直々に、私と婚約を結ぶ許可を得ていたのだから。
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