第30話
思わず私の体はグラリと揺らいだ。けれどそのままコケることはなかった。隣に立つレオンが私の腰に手を添え、踏みとどまらせてくれたからだ。
「そんな心配などしなくとも、その意中の相手はあなたに夢中ですよ。お前もそう思うだろ、リーチェ?」
私は何も返事はせず、ただひたすら甘いこの状況に身を委ねていた。
*
「ーーで、あれは一体どういうことでしょうか?」
「あれとは一体、どの話でしょうか?」
あのままレオンにエスコートされながら、私達は屋敷を後にした。そしてキール邸に向かう馬車の中で、やっと私は疑問を口にする事にした。
「媚薬香水をつけて来た、本当の狙いです」
「理由なら伝えたではありませんか。どうしても虜にしたい女性がいるのですよ」
ふっと笑みを零したかと思えば、レオンは長い足を肩幅に開き、その膝の上に肘をついて手を組み合わせた。
私に挑みかかるように、青い瞳が妖しく輝いている。
「虜にしたい女性がいるのではなく、媚薬香水を試したいというのが魂胆なのでは?」
「相変わらず鋭いですね。ですが半分正解と言ったところですね」
「半分? では、もう半分の正解とは?」
目を瞬せながら、首を傾げた。するとレオンは背もたれに背中を預けるように座り直した後、こう言った。
「リーチェは頭が良いのに、どうして一片に関してはそうも鈍感になれるのでしょうか」
「私が、鈍感……ですか?」
「ええ、ものすごく」
最近のレオンはとても表情が豊かに見える。それはレオンが私の想像していた存在とは違っているのか、はたまた私がレオンの表情を読むのに長けているのか。
ぶっきらぼうに見える彼の表情から、ほんの少し苛立ちのような歯がゆい様子が見て取れた。
「この状況で虜にしたい女性など、たった一人しかいないでしょう」
「それは、私ですか?」
「そうです」
当たり前でしょう? とでも言いたげな物言いに、私は再び首を捻った。彼が言った、言葉の真意を謎解くために。
私の前で媚薬香水をつけ、その効果を実験しているのと同じで、レオンがこう言うのには裏があるはずだ。
問題はなぜレオンが私を虜にしたいと思ったのか。
レオンの言った事を言葉通りに受け取ってしまってはいけない。何せ、私はモブ令嬢。脇役だ。舞台のお芝居でいうなら村人A。園児のお遊戯会でいうなら、舞台袖で立ち尽くしている木だ。両腕を必死になって上げて、木の枝を表現しているような、大木だ。
「気づいていて、なぜ知らないふりをなさるのか。私を試していらっしゃるのでしょうか」
「試すだなんて、めっそうもない。試されているのは私の方ではありませんか?」
「私が何を試していると?」
「それは私の方が聞きたいのですが。聞けば答えてくださるのでしょうか」
レオンが私を虜にしたいと言ったのは、一種の謎かけだ。その謎を投げかける相手に聞いたところで、答えてくれるとは思えないのだけど……。
レオンはスッと席を立ったかと思えば、私の隣に腰を下ろした。
侯爵家の馬車の中。決して広いとは言えないこの箱の中で、レオンは私と肩が触れ合うほどの距離を詰めている。
「どうしてそんな風に私の言葉を捻じ曲げて受け取るのかが、わかりません。私はあなたを試したつもりなどありませんよ。言った通りの言葉を受け取って下さい」
言った通りの言葉を……? 私を試しているわけではない……?
「リーチェ、私はあなたを虜にしたいのです。他の誰でもなく、あなたを」
広い空を想像させる、青く輝く瞳。スッと伸びた形の良い鼻と、揺るがない意志を感じさせる凛々しい眉。そして、私好みの薄い唇が静かにこう言った。
「私があなたの虜であるように、リーチェにも私の虜になっていただきたいのです」
レオンの大きな手が、そっと私の頬に触れた。
状況も、レオンの言ってる意味も理解できないほど、私の脳がショートしたのは言うまでもない。
「……何か言ってくれませんか?」
その言葉に、一瞬この場から飛び去っていた意識が再び戻った。
……待て待て待て。なんで? なんでこんな事言うんだろう?
気を抜いたら顔が赤く腫れ上がりそうなこの状況と、レオンの言葉に、私は必死になって脳を働かせる。気を抜いてはいけない。むしろ私は何かを試されているとしか思えない。
「父に、何か吹き込まれたのでしょうか?」
レオンの事だからマルコフに何かを言われたからと言って、それでこんな事を言うような人ではないはずだけど、今の私にはそれくらいしか理由が見つからない。
マルコフに弱みでも握られた? だからこんな事を言うの?
いいや、マルコフならそんな面倒な事を言わなくとも、私に命令さえすればいい。レオンと結婚しろと。
でもレオンは違う。だったらレオンをたらし込む何かをしたのだろうか。
だとしても、レオンが私を虜にしたいなんて言う? マルコフも賛成しているなら尚更、私の気持ちなど無視して婚姻へと話を持っていけばいい。
ーー本当にマルコフとレオンが何らかの協定を結んでいるならの話だけど。
いろんな事が私の脳裏を駆け巡る。その間もレオンは私に甘い視線を向け、彼の手は私の頰から耳にかけて、撫でるように動いている。まるで物言わぬその手で愛でも囁いているかのように。
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