第21話

 レオンに借りたスカーフを鼻にグイグイと押し付け、出血が微量になってきたのを確認してから、気をとり直して紅茶を啜る。

 この部屋に通された時、侍女が準備してくれた紅茶だ。中身はすっかりぬるくなっていた。


「リーチェ」

「なんでしょうか」

「そのカップは、俺のものだと思うのだが?」


 ――ブーーーッ!!!


 そうでした! 席を交代したんだから、使用していたティーカップだって逆なはずなのにっ! いろんな事に気をとらせすぎて、すっかり忘れてしまってた!

 ってかこれ、間接キスじゃ……⁉ いやいや問題はそこじゃない! むしろいらない事を考えるな、私! さもないと……。

 ――ポタリと赤い色が、はちみつ色をした紅茶の中に落ちた。

 あっ、やばい。ほとんど止まっていた鼻血が再び、噴き出した。


「いえ、来なくて結構です! 自分で対処もできます! むしろ私に気を使ってくださるのであれば、見て見ぬふりをしてくださいませんかっ?」


 視界の端でレオンが軽く腰を上げたのを確認して、私はすぐさまそう言った。さっきみたいに抱きしめに来る可能性を考慮しての言葉だった。

 また彼に抱きしめられでもしたら、今度こそ私は出血多量で死んでしまうだろう。

 推しの腕の中で死ねるなんて、なんて幸せな死――じゃない。だめだ、だめだ。美々しいレオンの腕の中で鼻血ブー垂れた令嬢の死なんて、全然美しくない。絵ずら的にも全然ダメじゃん。死してなおそんな黒歴史語られたら、死んでも死にきれないっ!


「まぁ俺としても、見て見ぬふりをしたいところではあるのだがな」


 嫌な言い方をするな、と思って目の前に座るレオンに視線を向けると、レオンの麗しい顔面がびちょぬれだ。

 なんで……? そう思ったところで、思いあたる理由はたったのひとつ。

 それって……まさか、私の噴き出した紅茶のせい⁉


「侯爵様、申し訳……!」


 慌てて立ち上がり、手に握りしめているハンカチを渡そうとしたけど、よくよく考えたらそれはハンカチではなくレオンのスカーフだし。しかも私の鼻血付きだし。

 前世含めた人生で、未だかつてこれほどまでに自分を愚かだと思った事があっただろうか……?

 レオンが言った見て見ぬふりをしたいところっていうのも、お前がお茶ぶっかけたせいで知らぬふりすらできねーよ、ばーか! って言いたかったのかしら……?

 私がここに来た理由は、レオンにお願いしたい事があったからなんだけど……どんな面下げてお願いすればいいんだろう?

 それでなくともキールとのパーティは承諾してくれて、もう一つついでにお願いを聞いてもらえないだろうかと考えていたのに、どうしよう。

 そもそもこのビジネスの契約すら危ういんじゃない? 契約破棄とかされないよね……?


「一度、仕切り直しが必要なようだな。悪いが人を呼ばせてもらうぞ」


 テーブルの上に置かれていたベルを手に取り、それが鳴ったと同時に執事だろうか? 身なりを整えた男性が部屋の中に現れた。


「着替えの準備を。その間に新しく紅茶を入れなおしておいてくれ」

「かしこまりました」


 すっと立ち上がり、濡れたまえがみを掻き上げたレオンは水も滴るいい男。媚薬香水をつけた時よりも色っぽい。

 ほんと、イケメンの破壊力ってやばいな。媚薬香水なんてつけなくとも、常に蠱惑的な何かを放ってる気がするし。

 私はこれ以上、レオンの色香に当てられないよう視線を逸らした。


「安心してくれ。この屋敷の人間は口が堅い。この部屋で起きた事を誰も口外する事はない」


 鼻血のことを言ってるのだろうか? それともこの紅茶の惨劇な状態を差して言ってるの?

 どちらにしても、今となってはどうだっていいわ……。

 私が返事をする前に、レオンは執事に向かってこう指示を出した。


「リーチェ嬢にも着替えと、その手伝いをする侍女も回してやってくれ」

「えっ? あっ、いえ、私は……」

「身なりは整えた方がいい」


 言われて自分のドレスに視線を落とすと、胸元には紅茶のシミに加え、鼻血の色もあちこちに飛んでいる。

 確かにこれは、見てられないかも。


「ですが今日は着替えを用意しておりませんので」

「急いでドレスを買い付けさせよう」


 わざわざ⁉


「出来あいのドレスになるが、今着てるドレスよりはマシだろう。不平や不満は受け付けるつもりはないぞ」


 いや、言わないし。ってか私の論点はそこじゃない。


「買い付けさせるまで時間がかかってしまうのではないでしょうか?」

「この後の予定があるのか?」

「いえ、特にはありませんが」


 私はないけど、あなたは忙しいでしょ? 今日は騎士の訓練に出てないってことは非番なはず。だったら侯爵家当主としての仕事がわんさかあるでしょうよ?

 そう思って言ったんだけど。


「ならば、ゆっくり湯あみでもして着替えればいい。ああ、鼻血が出ているのであれば湯に浸かるのはよくないな。それまであたたかい飲み物とデザートでも用意させるから、部屋でゆっくりするといい」

「いえ、あの」

「終わったら一緒に食事を取ろう。そこで話は聞くことにする」


 淀みなく流れていく会話に口を挟めず、結局レオンは言いたい事を言って部屋を後にした。

 ああ……今日も一日が、長くなりそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る