第20話

 抱きしめられたことでぶわっと広がる媚薬香水の香りと、レオンの香り。フローラルな香りがほどよく混ざり合い、無性に私の胸を締め付ける。

 香りで人を好きにも嫌いにもなれると言うのは、本当なのかもしれない。この香りを嗅いでいるだけで心臓の音がヤバい。

 ……いや、この状況も相当ヤバいんだけど。鼻血止まるどころか、決壊したダムの如くさっきより勢いよく噴き出しそうなんだけど!


「あの、侯爵様、衣服が汚れてしまいます」


 この状況で何て言えばいいのか分からないけと……何か言わなければ!

 そう思って言った言葉のせいで、私はレオンから更に熱い抱擁を受けてしまった。

 …………いや、なんで?


「衣服の事など気にするな。むしろこれで拭けばいい」


 レオンは自分の首に巻いていたスカーフをはずし、それを鼻血で汚れた私の手に押しつけた。

 真っ白なスカーフが赤く染まり、なんだか申し訳ない気分になる。


「と、ところでなぜ私は抱きしめられているのでしょうか?」


 ここはもう変化球なしのストレートで勝負だ。そう思って聞いた言葉への返答は……。


「こうすればリーチェの顔が見えないからな」


 さらなる難球で返されてしまった。


「鼻血を出した事も私が見なければ、誰も知らないだろう?」

「えっ、いえ、ですが、候爵様がご存知ではないですか」


 私としてはそこが一番問題なのだけど? 使用人や他の人なんてどうだっていい。推しの目の前で鼻血ブーした事実に今すぐ消えてしまいたい。心臓麻痺して死んでしまった方が幾分も良かった。


「ハッキリとは見ていない。だからセーフだ」

「いやいや、ハッキリくっきりしっかりとご覧になりましたよね?」


 鼻血ブー垂れる直前まで、至近距離から私の顔を直視して、さらにほほ笑みかけてましたけど。あれで見逃してたわけないじゃない。そんな嘘、子供でもつかないと思うんだけど。


「どうやら俺は、都合の良い事はすぐに忘れるタチなんだ」


 本当に都合の良い話だな。

 私にとってはありがたい申し出なのにそう思えないのは、やはり相手が悪いからだ。


「とにかく離れて下さい」


 グイグイとレオンの胸を押し返そうとするけど、さすがは騎士、ビクともしない。むしろ服の上からとはいえレオンの胸板に触れて、さっきよりドキドキする。危険だ。ドキドキはそのまま鼻血となってドバドバ放出されてしまう。


「鼻血が止まるまで、このままでいた方がいいのではないか? その姿を俺に見られたくはないのだろう?」

「いえ、逆効果です。止まるものも止まらなくなるので離れて下さい」


 すると、レオンは腕の力をスッと解いた。あっけない解放に面食らうほどだ。


「なるほど、俺に抱きつかれると余計に鼻血が出ると……?」

「いえ、男性に免疫がありませんので、侯爵様じゃなくともそうでしょう」


 察しの良いレオンの言葉をそのまま承諾するのもくやしい気がするからそう言ったけど、言った理由も嘘ではない。

 それに冷たい表情を崩さないはずのレオンが、いつになく優しい目を向けてる様子も気になった。さっきからやたら無防備に笑顔を見せてきたり……いや、あれは香水の効果を確かめたいがために近づいてたに過ぎないのだけど。


 それにしたって、レオンは設定上よりも私に優しい。新しいおもちゃを見つけた子供のように思えなくもないけど、そもそもレオンは自分が興味を持った相手以外に心を許さない。

 そしてその許容範囲はミジンコほどの大きさだ。だからこそどの令嬢にも冷たく、同姓に関してもあまり心を許さない。マリーゴールドに出会うまでは。


 もちろん仕事は別だ。でもレオンは人のプライベートに介入したり、自分のプライバシーに介入させたりもしない。

 私との関係はビジネスだけど、これはビジネスパーソンに対する態度とはまた違って見えるし……まさかとは思うけど、レオンが私に好意を持ってたりしないよね? 


 いやいや、ないない。

 いくらマリーゴールドに出会う前とはいえ、あのレオンがモブ令嬢に好意を持つなんて。

 それにこれは、好意というより興味に近い気がする。

 どちらにせよ、余計な興味心は今からポッキリ折っておく方がいい。私の動悸と残り僅かな血液をセーブするために。そうじゃないと、今後のビジネスパートナーという関係が危ぶまれてしまう。致死量の出血に伴い死亡という筋書きだけは避けたい。


 レオンから解放されたと同時に、私はレオンが座っていたソファーに座る。話し合いが始まった時とは席の位置が逆転するように。

 どちらが上座で、どちらがレオンの席かなんてこの際どうだっていい。今は距離を離したい。


「今日はもう一つ、侯爵様に折り入って話があったので来たのですが、そろそろその議題に入ってもよろしいでしょうか?」


 私はまだ止まりきっていない鼻血を抑えながら上座に座り、レオンに席につくように促した。

 もしも今、この部屋に従者が入ってくればこう思うだろう。この屋敷の主人は一体誰なのか、と――。

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