第14話

 イライラがマックスに達しかけたその時、コーヒーテーブルの上に置かれた色とりどりのフルーツを見て、ふと思い出した。


 アロマを本格的に勉強し始めた頃、短期スクールにも通ったんだけど、その時の講師が言ってたっけ。性格の悪い人にはオレンジとペパーミントの精油をブレンドした香水を振りかけたらいいって。

 そうしたら性格が良くなるみたいな事を言ってた気がするけど……キールには香水じゃなくて原液を頭からぶっかけてやろうか? むしろ毎日原液のお風呂に浸からせたとしても、あの男のあの性格は良くならない気がするけど。


 ソファーから立ち上がり――チリンチリン、と机の上に置いてあるベルを鳴らせば、部屋の外で待機していた侍女が現れた。


「リーチェお嬢様、お呼びでしょうか」

「紅茶の用意をお願い。それとは別に、ボールに入れた熱いお湯を持ってきてくれる?」

「かしこまりました」


 丁寧に頭を下げて部屋を後にした侍女を見送り、机の引き出しを開ける。さらにその中には木製の箱。それを取り出し、机の上に置いた。

 その箱を開けた瞬間に広がる花や木、果実といった自然の香りが辺りを充満させる。その香りを嗅いだだけでホッとして、苛立っていた気持ちが少しだけ静まったのを感じた。


 こういう時はリフレッシュが必要よね。頭をシャキッとさせて気分を変えるのならやっぱり果実の香りが一番だわ。

 箱の中には調合を終えた香水や、原液のままの精油が所狭しと並べられている。その中からビターオレンジの精油を取り出した。

 普段はスイートオレンジの香りを好むけど、今の私に必要なのは、精神を強化して安定させる作用が強いビターオレンジだ。


 ちょうどその時、ノック音と共に侍女がティーセットと私の依頼した熱湯を持って現れた。


「お嬢様、お茶はどちらにセットいたしましょうか?」

「コーヒーテーブルに用意して。お湯の入ったボールはここに持って来てちょうだい」

「かしこまりました」


 粛々と仕事をする侍女が、熱湯を私の目の前に置いた。その時ふと彼女の利き手の甲が赤くなっていることに気がついた。


「その手、どうしたの?」


 痛々しい赤い色がやけに目についてそう聞くと、侍女は気まずそうにパッと手を空いた片手で隠した。


「いえ、その、お恥ずかしい話なのですが、お湯を移し入れる時にこぼしてしまいまして……」

「えっ、じゃあヤケドじゃない! ちょっと見せて」


 思わず彼女の手首を掴んで怪我を見ると、チラッと見た時よりもヤケドの程度が重そうだった。すでに水ぶくれができている。


「紅茶の用意はいいわ。そのまま置いていてくれれば私がやるから」

「ですが、お嬢様……」


 申し訳なさそうな表情を見せる侍女に、私は一喝。


「それより早く氷水で冷やしなさい。このままじゃ痕が残るわよ」


 まぁ、気持ちは分かるけどね。自分の事より主人である私の命令を優先させた結果なんだろうから。

 それにお湯をひっくり返すなんて自分の不注意だし、もしかしたらそんな事を悟られたこと自体恥ずべきものだと考えているのかもしれないし。


 私も前世で、まだかけ出しの漫画家だった頃、居酒屋でバイトしてた時にこういうミスはやったから分かる。キッチンで揚げ物を揚げてる時とか、油跳ねしても料理を提供する事を優先させてたっけ。


「それではお言葉に甘えて、私はこれで失礼いたします」


 しずしずと頭を下げる侍女に、私は手招きをする。


「あっ、ちょっと待って。これを持っていきなさい」


 アロマオイルの入った木箱の中から、一つの精油瓶を取り出した。同じ色の遮光瓶に入った精油は中身が何か分からなくなるため、蓋にラベルを張り一目でどの製油なのかが分かるようにしていた。

 この精油は――。


「ラベンダー……ですか?」


 精油瓶を受け取った侍女は、ラベルに書かれた文字を読んで、首を傾げた。


「そうよ。キチンと冷やした後にこれをヤケドの箇所につけなさい。そうすれば痕にはならないはずだから」


 元々アロマセラピーという言葉は、フランス語の香りアロマ療法セラピーの言葉の組み合わせからくる造語だ。

 フランスの化学者、ルネ=モーリス・ガットフォセによって作られた言葉で、彼が研究室でひどいヤケドを負った際、そのヤケドにラベンダーの精油をつけて、見事綺麗に治ったというのはとても有名な話だった。

 あまりにも有名な話だから、アロマを習うと必ずこの話が耳に入るくらいだ。


 ラベンダーは心を落ち着かせる効果があることで前世では有名だったけど、混じり気のない原液――ラベンダー精油はヤケドや擦り傷切り傷にも効果的だとこの話を元に語られている。


「傷薬のようなものだから、使いなさい。きっと良くなるわ」

「あっ、ありがとうございます、リーチェお嬢様」


 侍女は深く頭を下げて、慌ただしく部屋を出て行った。


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