第10話

 ――キス、と言っても肌に触れるか触れないかの、形だけのものだった。

 むしろその距離感にもどかしさを覚える。

 キスの真似事をした後も私の手を取ったままで、こう言った。


「令嬢が跪くよりも、令嬢の前に男が跪く方が絵になるだろう」


 ……だから無駄にイケメンは、苦手なのよ。

 下から見上げるように私を見るレオンは、可愛いとかカッコいいとかそういった言葉では足りない。

 同時に、血反吐を吐きながら精神と体力をゴリゴリ削って描いた前世の私が報われたような気がした。


「ひとつ、私と取引きをしないか?」

「取引き……ですか?」


 レオンに手を引かれながら立ち上がった私は、再びソファーに座らされる。今度は対面ではなく、彼の隣に。恐れていた事が現実になった瞬間だわ。

 青い瞳が至近距離から真っすぐ私を見つめる。その目にジッと見つめられると――私の心臓が耐えられないから、もうちょっと話すピッチ上げてもらえないかしら……?


 言葉は心の中でだけつぶやき、鼻血が出ないように鼻をそっと手で抑える。イケメンの目の前で鼻血吹き出すなんて、私の作り出したシリアスな令嬢マンガではあってはならない事だ。その危険因子だけは避けたい。

 私の考えなどつゆほども知らないレオンに向けて、私はニッコリとほほ笑みえを浮かべた。なけなしの余裕を見せつけるために。


「私個人に香水を作ってもらいたい。もちろん報酬は払おう」

「えっ、本当ですか!」


 まさかレオンから依頼してもらえるなんて、思ってもみなかった収穫だ。今日はキールのせいでこれ以上このパーティにいれないと思ってただけに、完全にタナボタだ。


「ちなみに、どういったものをご所望なのでしょうか?」


 レオンがあの香りを気に入ってくれたのであれば、普段の疲れから癒されたい・解放されたいと感じているはず。もっと自分の状況に合わせたものを調合して欲しいって依頼かな? なんて思わなくもないけど……彼の答えは意外なものだった。


「女性を惹きつける香りを作って欲しいんだ」


 ジョセイヲヒキツケルカオリ……?

 ポッカ―ンと開いてしまった口が塞がらない。驚きのあまり、思わず耳の穴を指でかっぽじってしまったくらいだ。


「ちょっと言葉を聞き逃してしまったようですので、もう一度おっしゃっていただけますでしょうか?」


 何かの間違いだろう。そう思って改めて聞き返したら、あの仏頂面のレオンがコホンと喉をならして気まずそうにこう言いなおした。


「先ほど、香りひとつで人を好きになる事も、嫌いになる事もあると言っただろう。ならば意中の相手を惹きつける香水もできるのかと思ったのだが……?」

「えっ、それは……意中の相手がいるということでしょうか?」


 まさかもう、マリーゴールドに出会ったの? なんで? 設定的にはまだ先のはずなのに。っていうかマリーゴールドに出会ったのであれば、お互いに惹かれ合うはず。そんな惹きつけるような香りなんて利用しなくていいと思うんだけど。


「いや、それは例えだ。意中の相手がいるというよりも、気になる人が現れた時の備えとしてだな」

「えっ? それ、いります?」


 思わず口に出して言っちゃった。慌てて口元に手を当てて、今度は私が「コホン」と喉を鳴らした。

 だって、レオンがそんな香りをつけた日には、ハイエナのような令嬢がこぞってやってくる決まってるじゃん。

 それでなくとも、女性と関わるのが嫌でパーティも避けてるくせに。カモが自らネギ背負ってどーすんの⁉


「侯爵様でしたら、その必要はないかと思いますが。そんな催淫効果のある香水など求めなくとも、女性に不自由をしていらっしゃらないのでは……?」


 むしろ女性を煙たがるキャラのはずなのに、なぜこんなキャラ崩壊のような事を?

 思わず鼻血噴き出しを抑える為の左手を鼻から引きはがし、ズイッと体が前のめりになる。


「女性に不自由しているという話ではなく、今後のための保険として欲しいのだ」


 レオンの青い瞳は、気まずそうに私から視線を逸らし、部屋の中にさ迷った。

 だけど私は恥も照れも捨て去り、レオンの視線の先を追うように顔を動かした。


「それは何のための保険なのでしょうか?」


 だからそれ、いるの? レオンに落ちない女性なんていないでしょ?

 レオンの相手役であるマリーゴールドだって、レオンを一目見た瞬間に、胸がドキドキ高鳴るように描いたし。

 そもそもレオンとマリーゴールドの出会いは、あるパーティでキールに言い寄られていたマリーゴールドをドラマチックに助けるのがはじまりだ。

 乙女が恋に落ちるにはバッチリなシチュエーションにして、ハラハラドキドキ、まるでジェットコースターに乗ってる時のような感覚を読者にも与えるように描き上げた、私の注力したワンシーン。

 だからレオンは何も心配せず、その身ひとつでマリーゴールドに会えばいいのだけど……まぁ、本人はそんな事知る由もないわよね。


「ではこうしよう。トリニダード令嬢が作ったその香水を作るのならば、私が金銭的な支援をしよう。媚薬効果のある香水として売り出せば、話題性も高く、買い手も多いと思うのだが?」

「それは……」


 悪くない話だわ。

 でも支援してまで、その媚薬香水が欲しいの? なんで?

 ビジネスにシフトを合せて話をしてるけど、結局は自分も手に入れたいからでしょ? 先にそういう話をしちゃってるんだから、そこは否定できないわよ?

 疑問が脳裏をよぎるけれど、レオンが支援してくれるのなら信用はできる。しかもキールから邪魔が入ったとしても、パトロンがレオンだと分かれば、むやみやたらに手は出せないはず。

 肩書きこそレオンはキールよりも下にあたるが、レオンは帝国一とも呼べる騎士。手柄もたくさんあげている。

 その上バービリオン侯爵家はコーデリア公爵家よりも家柄は古い。帝国内では由緒正しい数少ない家柄とも言える。


「どうだ? これでも納得できないのならば、さっき言っていたお詫びとやらを、ここで使わせてもらってもいいが」


 ああ、ダメ押し。

 私は静かに首を縦に振った。


「……わかりました。では、キチンと書面にて契約を結びましょう」


 こうして私とレオンの間に、おかしなビジネスの関係が結ばれた。

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