第9話

「なるほど。私が選んだものだと思っていた香りが、実は香りに選ばれていた……という事か。なかなか興味深い話だな」

「芳香療法と言って、香りのもつ力は偉大です。香りひとつでその人を好きになる事も嫌いになる事もあるくらいですから」

「ならば令嬢はコーデリア公爵が嫌いな香りの香水を作り、次回からは常時携帯する必要があるようだ」


 ……えっ? それって、虫よけスプレー的な? すっごいマジマジとした顔で言われてるんだけど。


「普段からつけていれば、あいつの興味も逸れるかもしれない」


 あら。キールの事をあいつとか言ってるし。本人いないからって、すでにキールを蔑んでるじゃん。

 まぁ、恋のライバルになる相手だし、相手はあのクズいキールだし……仕方ない、というか同意する。実際のヤツはまごう事なきクズだったから。


「それは願ったり叶ったりですが、そもそも私は公爵様の嫌いな香りというのを知らないので……」


 色んな香りをつけて試したとしても、そもそも私は彼に会いたくも、関わり合いたくもないのだから、試すのはリスクが高すぎる。

 一度会っただけの今日で、これだ。考えただけでゾッとする。

 さっきあった出来事を思い返して、私の肩がふるえた。するとレオンはすっと立ち上がり、私の背後から自身が着ていた上着を肩にかけてくれた。


「嫌な事を思い出させてしまったらしい。謝罪しよう」


 ……なんて優雅なイケメンだ。さっきとは違った意味で体が震える。悶絶ものだ。


「あの、ふと思ったのですが……その香水を今日はつけていらっしゃらないのですね?」


 さっき抱きかかえてもらった時、レオンからは甘いのに、清涼感を感じさせる香りがした。それは私が作った香水の香りとは違ってたんだけど……香水瓶は持ち歩いてるのに、中身は使わないの?


「ああ、普段から香水をつける習慣はなくてね。この香りを楽しむときは、ハンカチに振りかけたり、ルームフレグランスとして使用したりしている」

「えっ、ですが……今は別の香水をつけていらっしゃいますよね?」

「いや、つけていないが……?」


 いや、だって? さっきの香りはなんだったの?


「ちょっと失礼いたします」


 スッと立ち上がり、私はレオンの隣に移動する。失礼とは思いつつも、キールの胸元に顔を近づけた。

 自分にしては大胆な行動だと分かってるけど、他社商品の調査は必要だ。こうして目を閉じて、目の前にいるのはジャガイモだかにんじんだかを想像すれば、近づくことも可能だ。

 私はこうみえて、完璧主義者だから。恥と照れは、私の主義には敵わない。


「……やはり、とても良い香りがいたしますよ?」


 そう言って目を開けて、ふと顔を上げてみると、すぐそばに国宝級の美しい顔が。レオンの吐息が私の肌を優しく撫でるほどの距離だ。

 レオンの淡くて青い、透き通るような瞳が、驚いたように見開いている。


「しっ、失礼いたしました!」


 目を閉じてたせいか、さすがに近づきすぎた。

 慌てて身を引くと、勢い余ったせいか、体はぐらりと揺れた。私の視界には優美な天井が広がって――あっ、これ、ひっくり返るやつ!


 ソファーの縁に手をついたつもりが、思ったものを掴めなかったせいで、私はどうやらだるまさんの如くひっくり返るらしい。

 こんな状況にも関わらず、脳みそはどこか冷静で、少し先に起きる未来を予見して、私はそっと目を閉じた。


 ――ああ、終わった。


 私の推しのイケメンの前でひっくり返るなんて失態を起こすなんて……って、そう思っていたけど。



「……本当に危なっかしい人だ」



 ホッと息を吐いたのが聞こえて、私はそっと目を開けた。

 さっき香った清涼感のある甘い香りが、私の体を包み込んでいるような、なんとも不思議な感覚を覚えた。

 私の腰を支える、ガッチリとした腕。眉間にはハッキリとした深いシワを刻みながらも、心配そうに揺れる青い瞳。

 そんな状況に驚いた私は、レオンの整った顔面にーービタンッ、と音をかき鳴らして平手打ちを食らわせた。


「いっ……!?」

「ごごごごごっ、ごめんなさい!」


 自分の起こしたこの状況に、さすがの私も引く。ドン引きだ。

 よりによって助けてくれた相手に平手打ちはない。いや、平手打ちというか、相撲でいうところのツッパリ? 勢い余ってどすこい! と、彼の顔を遠ざけてきしまった。

 あまりの勢いにレオンの首からグキッって音が聞こえたし、ツッパリの勢いも良すぎて本当にビンタみたいになってたし。

 ただ、あらぬ方向へと顔を向けさせられたにも関わらず、レオンはしっかりと私を抱きかかえてくれている。

 さすがは帝国の騎士。ちょっとやそっとでは揺るがない身体力。いやいやそんな事思ってる場合じゃないかも。そもそもレオンは侯爵様。立場も家柄も上だ。


「あの、どのようにお詫びしたらよろしいでしょうか……?」

「ならば、ひとまずこの手をどけてくれ」


 そう言われてハッとした。自分がまだレオンの顔を押し戻した状態で静止していたということに。

 イケメンの顔面に触れた手をそっと下ろし、レオンも私の体をゆっくりとソファーへ下ろした。


「……大変、申し訳ございませんでした」


 ソファーから降りて床に跪き、しずしずと頭を下げた。


「助けていただいてばかりだというのに、この恩知らずな仕打ち、申し開きのできないことでございます。品性典雅なバービリオン侯爵様のお顔を突き飛ばすなど、令嬢としても恥ずかしき行為でございました。悪気があってした事ではないという事だけでも、ご理解いただけますと幸いにございます」


 丁寧に詫びを入れた後、頭を下げたままの状態で私はこう思った。

 このまま私は家に帰ろう。今日は厄日だ。絶対そうだ。

 パーティに来たのに一口も飲めなかったお酒を一人で晩酌しながら、今日は床につこう。

 そんな風に思っていた私のもとに、再びあの香りが鼻先を掠めた。


「令嬢が簡単に跪くものではないな」


 言葉に引かれるようにして顔を上げると、レオンは私の前で片膝をつき、私の手の甲にキスをした。

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