タイトル未定。北国の小さな集落①

 皮膚や髪の表面がささくれ立つような空気の乾燥は、故郷を思い起こさせる。ただ、この地は故郷のそれよりもいたく残酷なものだ。冬が訪れれば地面が凍りつきひび割れ、ボルボやトヨタの車は街から忽然と消え去ってしまう。それらは高利で都会人の手に渡る。使い勝手のいい暖房付移動手段として都心部へと貸し付けられるのだ。都会に住む人間は、どれだけ厳しい冬でも耳や鼻や口を覆って外に繰り出し、商談や買付や様々をして冬を乗り越える生計たつきを得る。

 対して、都市に行くには山を越えなければならない——トンネルなどは掘られていない——地域では、冬になれば家の中に閉じこもる。そうしなければ、骨まで凍り付いて死んでしまう。凍死は、いつ死んだのかは分からないとこの街に住む人間ならば誰もが知っている。道に張った氷が解け始めて黒い砂地から雑草が生え始めるようになって、ようやく葬儀がり行われるのだ。外に出れば死ぬのだから、死体が発見されるのは当然、氷解の季節の頃になると決まっている。

初めは頼れる人間もいなかった。こんな街でよくここまで生き延びることができたなとケントは感慨深く思った——路傍の雑草に張り付いた薄氷うすらいを見下ろしながら。透明な氷ができるようになれば、日が差す時間帯には氷がいくらか融け、つまり春の訪れである。そして、旱魃かんばつの冬を乗り越えれば今度は川の水位に目を配らなければならない。足元では枝葉の尖った先端のように、すぐに折れてしまいそうな頼りない水流があるだけだが、西に向かい上流になるにつれて、ざらざらとした砂利や小石からやがて抱えるような大きさの岩を沿う急流となる。

「気をつけろよ」

後ろから声がかかって、ケントは振り返る。隣、と言っても黒い布で覆われた畑を挟んで何間も先の家ではあるが、隣に住むロベルト・クチンスキがぬうっと立っていた。ケントよりも二回りは背が高い。「地面が泥濘ぬかるんでる。足を取られんようにな」

「分かってる」

「春だな」

「あぁ」

「今年も、誰も死ななかったよ。あんたのおかげだ」

「そうかな」

「きっと、そうだろう」

ロベルトの何倍もの背丈がある、大男のように黒々とした幹の針葉樹を見上げながら、ケントは思考を巡らせた。一本の木の向こうには、さらに多くの木々が立ち並んでいる。いずれも葉は濃い緑をしていて、それが緑であることは、目を凝らさない限り分からない。

森の中にある集落にたどり着いたときのこと。自分を拾ってくれた村人たちのこと。

厳冬が明けるたびに、思いをせずにはいられない。そのときには決まって、ケントは自らでも自覚せぬうちに、暗い、影の落ちた自然——人為の及ばないすべて、あるいは自己を取り囲むもの——を見つめるのだった。

「次の冬も、厳しいだろうな」

「どうして?」

「先生が言っていたんだから、間違いない。今年以上だ」

顔の輪郭を白い髪と顎髭とで覆った、オスの獅子ライオンのような老獪ろうかいな男を思い浮かべる。ヤン・ポルドフスキという名の彼は、集落では一番の年長者だ。

「今年は……」

ケントは言いよどんだ。うまい表現が思いつかなかった。

「あの……なんて言ったらいいだろう……うん、よかったと思うし、今も素晴らしいと思うんだ、とにかく」

「間違いないな」

冬が終わるたびに、ケントはそう思ってきたわけではない。少なくとも故郷に居座っていたころ——毎日が単調な作業の繰り返しで、命に差し迫るような危険もなく、金銭的に余裕があり、ブルーライトをひたすら浴びて、画面に表示される賞賛とかいうたぐいの文字列を読んでも何とも思わなくなった自分に一抹どころか一つかみ以上の哀惜を感じて、それを打ち消すように「音」を「打ち込んで」いたときは、季節感とかいうものがまるでなかった。冬が終われば春、春が終われば夏、夏が終われば秋、秋が終われば冬。単なる気温の上がり下がり、それから湿度も上下する。しかし空調の効いた室内にいるのだから、適当な企業の株価変動を眺めているのと大して変わらない気分だった。同じところを何度も周回していて、終わりのないレースゲームに向かってアクセルをべた踏みしているような気分だったような気がする。今となっては、はっきりとは覚えていない。つまり記憶に残らないほど無機質な経験だったと言える。

ある夢を見ても、その日の夕方にはほとんど記憶は失われる。今はちょうど、正午ごろといったところだろう。もう数年ほどここで過ごせば、自分が故郷で何をしていたのかなどはきれいに忘れ去ってしまうという確度の高い予想ができた。

その場で足踏みをすると、地面の下でざくざくと氷が砕ける音がする。空気中の水分は宿るところのない空中で漂泊ひょうはくし続けることはなく、一日の寒暖差で地面の砂に吸い込まれ、朝方にかけて地表で氷を作り、日が差すと氷の一部は融解してさらに蒸発し霧となって再び空気中へと戻っていく。今の時間帯は、ちょうど霧が湧き始めた頃合い——氷を構成している水分子の水素結合が強固ではなくなり、体重をかければ容易に崩れるようになる。それは、アスファルトの地面では決して起こり得ない現象だ。それから極稀にではあるが、妖精の舞踏タニエツ・ヴルザク と気の利いていなさそうな誰かが言い始めた——つまりダイアモンドダストだって見ることができる。それがどうというわけではない。見ようと思えば、自然には生まれ得ない環境でも設備を整えてそれっぽいものを観察することができるし、本当に気の利いていない誰かが撮影してユーチューブにアップロードしてくれた動画のおかげで、いつでもどこでも、ハイテクな端末さえあれば煙草を吸ってコカ・コーラを飲みながらでも御伽噺おとぎばなしのような光景が見られる素晴らしい時代。

地面をじっと見つめて動かなくなったケントを後目にロベルトは黙ったままきびすを返して、ケントは氷を踏み砕く音と荒い息遣いの音だけが遠ざかっていくのを待ちながら空を見上げた。沈黙が嫌で適当に出した言葉が「今年はよかった」というわけではない。たしかにケントはそう思っていた。これまでの冬はと言えば、初めてこの集落で冬を明かしたときはもちろん散々なものだったし、その次も知り合いが行方をくらませて、最低限の意思疎通が言葉でできるようになった秋には既に食料が尽きかけていたおかげで、冬には子どもが何人も栄養失調で病に斃れた。

ここに転がり込んできて十一年が経った。変わらないものはと言えば、厳しい寒さと集落を剣山のように囲む鋭く黒々とした針葉樹また針葉樹、それから小麦を育てているということ。肥沃な土地ではあるが、寒さで凍り付いてはどうにもならないし、それに余剰が出るわけでもなし、あわよくば他の村に譲ったり売ったりできるほどの生産高なんて、昔から変わらない農法を続けていれば望みはない。死ぬ子どもは死に、自然には抗えない。故郷では発達した技術のもとで高度に文明化した生活を誰もが送っていた。子どもはそう簡単に死なない。保温の効く肌着、校庭からサッカーのゴールが消える、あちこちにあるやたらと大きな病院、夜に子どもが泣いていれば近所の人間が「虐待だ」と通報する。だから子どもも大人も、少なくとも人前では「いい子」を演じるようになった。

自然の摂理。ケントはこの言葉が好きでもあり、嫌いでもあった。好きなところは、すべてを諦めること、および認めることを正当化できること。嫌いなところは、語感の良さから衆人が考えなしに使うこと。そういう風に考えてしまう自分も嫌いだし、自分がその言葉を使うときに周囲の目を気にしてしまうのも嫌いだった。理性では包み切れない心の激動に打ち込む麻酔銃。半透明なビニールの梱包。だから、そういう言い回しを好んで使うようにしていた。自然という言葉も嫌いで、それは誰もが自然について知ったような口を聞くから。もちろん、自分自身についてもそうだった。集団幻覚を見てはそれに影響されてしまって自己嫌悪を何度も繰り返した。死ぬことについてもそうで、同じように好きでもあり嫌いだった。ただ、死ぬことは故郷でもそれなりに身近で、知人の死を経験したことのある人は慥かに存在した。けれども、誰もが積極的に語ろうとはせず口を閉じてしまうところが、自然とは対照的だった。きっと、死の経験を語れば、むき出しの自己が顕れるから。だれ一人残らずそれを隠そうとしていて、あるいは虚構を積極的に語ることを通して本当のところについてはいっさい言及しなかったりした。

死なないのは、いいことだ。それは間違いない。語りの材料になることがあったとしても、それは例えばホロコーストだとかベトナム戦争とかについて語るのと同じで、あるよりはないほうがいい。そういうものは世の中にほとんどないから不思議なものだ。ほとんどないからこそ、際限なく物体が溢れていく。そりゃまた自然の摂理だろうけど、と故郷の言葉を口ずさみながらケントは振り返る。黒い土が踏み固められた幅の広い道路を挟んだ一方——針葉樹林の茂る山を背にして道路を挟み、畑と荒家あばらやが平面に点在している。マクドナルドもカーショップもなければ、ホテルやコンヴィニエンス・ストアもない。建物はすべて人の住処の意味しか持たない。そして、本当にそれだけしかないのだった。信号機も横断歩道もないし、道路標識もない。ロビー活動をしている人も議事堂に向かってデモ行進をする組織も文句を言うだけの政治家もいない。あるのは、雨風を凌げる家と特別ではない人間。人間集団が小さくなれば、それもまた自然の摂理。

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